見出し画像

四天王寺式伽藍配置は、なぜ四天王寺だけで維持できたのか。~加筆23年3月8日

四天王寺式伽藍配置とは

写真は明治時代なかばの貴重な写真。中心伽藍、手前から、金堂、五重塔、中門。

四天王寺式伽藍配置、は、世界史的建築学の用語です。

世界に、亀井水が類例がないように、四天王寺の伽藍配置は四天王寺にしか残されていません。だから、四天王寺式、なのです。

画像1

南大門、中門、五重塔、金堂、講堂、が一直線に並ぶ。極めてシンプルな設計です。

幾何学的構造~伽藍全体と丸池と亀井水

もう一つ重要なことは、中心伽藍の縦横比率が、4対3。すると、対角線は5。合計すると12。飛鳥時代の尺、12間で中心伽藍が4当分され、五重塔基壇の南面、中心の転法輪石、金堂基壇の北面がぴったりあてはまります。

さらに、中心伽藍から北に12間のラインに、ウシトラの位置に亀井水中心軸、イヌイの位置に丸池の南端が接ししかも丸池の直径が12間です。

こうした幾何学的手法は亀井水にも生かされています。亀形水盤の縦横比率は2対1、明治末に失われた影向井の縦横比率がルート3対1(正三角形の垂線の比率)であり、創建時から平安時代までお堂はなく、石垣の上から見下ろしたときの遠近法になります。つまり、東の空を礼拝する水鏡です。

2000年発見された飛鳥酒船石遺跡と
亀井水の同縮尺比較



戦後明らかになる四天王寺式伽藍の歴史

戦前には、四天王寺式伽藍配置の歴史は知られていませんでした。だから、四天王寺の歴史的価値を否定する暴論が、定説のごとく流布してきました。聖徳太子否定論も四天王寺を無視して成り立っています。四天王寺と亀井水の理解がすすめば、聖徳太子はいなかったなどの論理は吹き飛びます。

亀井水の類例は、飛鳥酒船石遺跡で発見されました。いま、世界に2例だけです。新潟市の、難波宮造営の時期に東北経営の最前線として生まれたとされる、ヌタリ柵(柵=き=城)にまつわる伝承の、長者のふせたるかめ、が3例目になるかもしれません。

聖徳太子生誕の地である、橘寺が、東西軸の四天王寺式伽藍であったことは、わかっていました。戦後、画期的な発見となったのは、法隆寺の前身の、本来の斑鳩寺の伽藍、若草伽藍が発見されたことです。若草伽藍は四天王寺式伽藍配置でした。また、四天王寺と同じ瓦が使われていることもわかりました。他にも、聖徳太子の母、間人皇后のための尼寺、中宮寺跡もやはり四天王寺式であることがわかりました。四天王寺式伽藍配置は、聖徳太子の名刺がわりともいえる基本だったのです。

やがて、韓国では、6世紀百済の寺院跡の発掘が進みます。その多くが四天王寺式伽藍配置でした。

四天王寺式伽藍配置は、仏教建築の大潮流であった。

横並びを好む日本人?

では、なぜ、それが四天王寺以外では継承されなかったのか。百済は国自体が滅びてしまいます。では、法隆寺はなぜ今に残る形になったのか。はっきりした答はありません。

仏教建築の影響をうけ、神社も建築がはじまります。複数の神々を祀るとき、日本人は横並びを選択します。貴重な例外は住吉大社です。住吉大社の本殿配置は、四天王寺とまったく同じといえます。

画像2

3本殿縦ならび。神功皇后の第4本殿は、四天王寺の太子殿に該当します。右手奥に舞台のある池がありますが、これも四天王寺の亀井水に符号します。

しかし、寺院でも神社でも、日本人は横並びを選択するようになります。一望して全体が見渡せる。

仏典を読めばわかりますが、お釈迦様を礼拝するとき、必ず右回りにぐるりと回り、そして正面に座ります。中心伽藍の回廊とは、文字通り回る仕掛けなのです。すると、四天王寺式伽藍配置とは、まずお釈迦様の塔婆である五重塔を見て、それから回廊をめぐり、金堂、講堂を見て行く、ドラマチックな仕掛けなのです。

亀井水が四天王寺式伽藍を守ってきた

では、なぜ四天王寺だけは、四天王寺式伽藍配置を変えなかったのか。1400年間に八回の再建があった。普通なら、どこかで変わってしまいそうです。今一度、境内図をごらんください。

画像3

四天王寺境内は、きれいに平らに整地されています。しかし、平らでない、高低差のあるラインが1つだけあります。中心伽藍の東面です。亀井堂の裏から中心伽藍南端まで、高低差があり、石垣が組まれています。

画像4

まず、亀井堂裏の石垣です。飛鳥時代の工法がそのまま残されています。これは、重大な発見です。金堂の真ん中の地下の井戸から導かれた霊水がここから流れでます。真ん中の巨大な岩の下に出口があるはずです。神聖な石垣として、あえて保存されたのでしょう。

北から南へ、石垣の高さを見てゆきます。

画像5
画像6
画像7
画像8

中心伽藍の東は、南端から亀井水にむけて、ゆるやかなスロープになっています。つまり亀井水を設営するためには、あらかじめ綿密な地形工事が必要だったのです。亀井水が創建当初の重要な場所として計画されたことが論証されます。

このようにして、中心伽藍の位置が決められます。さらに、亀井水の水源の井戸により、金堂の位置も変更不可能です。

亀井水の水の信仰があったから、中心伽藍の設計変更は、不可能であった。亀井水により、四天王寺式伽藍配置は四天王寺にのみ、厳密に再現されてきたのです。

画像9
画像10


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?