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九条兼実「玉葉」にメモされた亀井

見出し写真は、大阪市保存樹の楠と亀井堂。

#影向井

亀井水を記録した、最古の図面。

平安時代末、最後の摂政関白、九条兼実の日記「玉葉」の、1187年8月23日、後白河法皇の灌頂の法要における、四天王寺金堂と周囲の座席配置図の概略図の、隅に記録された亀井。

九条兼実は、四天王寺の別当を勤めた慈円の兄です。別当とは、比叡山から派遣された、四天王寺の責任者のことです。

歌人、歴史家としても知られる慈円は、親鸞の得度をおこなったことでも知られます。

後白河法皇は篤い四天王寺の庇護者でした。


さて、亀井、と銘記された、この図面からなにがわかるか。

亀井の左にある、長芋のようなものは、のちに鎌倉時代には長方形の蓮池に整備される、大寺池。最近は、亀の池と親しまれ、よく亀井水と混同される池です。


ところで、問題は亀井です。

本文には「余覧亀井、次見閼伽井」とあります。

閼伽(あか)井はどのお寺にもある普通の井戸です。

それにたいして、亀井は覧ずる、特別なものというニュアンスでしょう。


学者は、この図から、亀井は池のようなものかと、想像してきました。

江戸時代から明治中頃まで、亀井の上手にあると記録された、影向井。明治末の改造で亀井水から取り除かれた石槽。

私は、幾何学的な構造から、西門手水鉢に転用され、失われた初代石槽と判断します。その、記録には、前がやや広く後がすぼまる長楕円、と説明されている。

この図にぴったりです。

つまり、これは、影向井の印象を記録したものとして、貴重な図であろう。


(影向井の探求コラージュ)

明治末改造以前の再現図、

二代目手水鉢を展示、

現在の手水鉢、三代目レプリカ

昭和37年の初代手水鉢が映った写真。真っ黒な石槽の水面に西大門の赤い柱が映る。

初代手水鉢が影向井であった場合の亀井水の幾何学的構造遠近法で2つの石槽が設計、

初代手水鉢の作図方法ルート3、

平安時代末「玉葉」に描かれた頭が広く後がややすぼまる初代手水鉢の記録に合致する影向井の図。


九条兼実
天子摂関御影絵巻より、宮内庁所蔵

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