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小詩集~雀のないしょ話



青民草

わたしたちは草とされた

神々が生んだものではない

自分で繁殖したものらしい

重なり密集する草

冬枯れもせず繁栄する草

だのにすべてが孤独な

おのれをなげいている

単調な言葉になびいてゆく

風に押されうなだれて

さびしいさびしいとつぶやく

そんなに孤独が密集しても

厳寒の季節に枯れはしない

青い青い草だよ

彼、一切れのパンを

百万羽の雀に分け与えたり

さらに千万羽の雀、飢えきたりて

もとめんとす

彼、雀とともにパンをもとめ

街をさまよう

人ら、あやしき雀つかいとみなす

人らは、人パンのみに生きるにあらずと

彼をさとし

雀を調理す

人ら痩せた雀をかじり

街たちまちに飢え滅びたり

彼、去りぬ

雀が生きていることだって、価値を生み出している。価値として、計算できないけど。

労働が価値を生み出すという。ならば、マルチ商法の会社で働いている人の労働も、価値をうみだしている。

書類を隠蔽したり偽造したりする役人の仕事も価値を生み出している。

金や権力になる仕事が労働で、金にならない仕事は労働じゃない。

ホッブスが自嘲的に書いていたけど、学問はたいした力を持たない。未知のことは、価値があるかどうか、わからないから。

計算できないものには価値がない。役に立たない研究には金は出さんと、政治家が言い出した。

人間は、いつの時代も、ゆがんでいる。

あきらめて、とにかく生きていよう。


カラスもいます

どうすれば生きられるのか

わかったようなわからないような

にんげんは虚像しか教えない

少年のそばには

猫がいて

なにも教えないであくびしてくれた


アルチュウになって

死にかけていたとき

ハムスターがいてくれて

なにも語らず

二年で死んでいった

ありがとう


昔から老人のそばに

雀がいてくれた

だからこの国は

まだ滅びないでいる

雀は人間の文明が始まって以来の、共生生物だと思われます。付かず離れず生活域を共有し、人間がいなくなった集落からは雀の姿も消える。

だから、日々雀と適度に遊ぶのは、文明人のあかしといえます。

しかしまあ、公園で雀と遊ぶ人というのは、どちらかというと、マイノリティです。

社会にとり意味のない存在。

また、あえて社会的意味など求めない自我の働きともいえます。


日本人は、子どもは半分神様の世界にいる、という観念をもっていたようです。だから、容易に死ぬ。神様の世界にもどってしまう。

それが、単なる未完成な大人と見なされるようになりました。

子どもであることは未熟さでしかない。


社会の辺縁には、曖昧な多様性が統合されずに存在します。

人間存在にも曖昧な辺縁部があります。

詩や芸術は、辺縁から生まれます。

社会的規範の中では詩は生まれない。標語にしかならない。


辺縁性の豊かな感受性。思春期という美しい言葉があります。思春期は大切な時期です。

しかし、思春期は死語になりました。


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