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卑弥呼は沖縄のおばちゃんだった🐢🐢🐢かも

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写真、北谷=ちゃたん海底ドルメン

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北谷海底ドルメンの写真は、このテキストから。第三文明社、2010年。


❤#ヒミコは沖縄のおばちゃまだった

超大作です。


🐢🐢🐢🐢

あまり根拠も示さず、ヤバ壹国は沖縄だろう、と語ってきました。沖縄説を公にされているのは、地震学者として知られた琉球大学の木村政昭先生のみです。科学者としての見識を私は評価します。私の沖縄説は、木村先生の著書を知る前に確信していました。

私と木村先生とは、地名の読み方、経路の解釈でかなり差異があります。奴を、な、と木村先生は定説に従いますが、私は、ど、と読みます。日本語の渡や戸、にあたる。渡りの地、つまり港や宿場にあたる。


その前に、当時の中国の天文地理の知識を知るため、晋書天文志、から。

史記以来、中国の歴史書には、天文志が付随しています。王朝の交代は天命によると信じる中国では、天文観測は国家事業でした。

しかし、三国志にだけ天文志がかけていた。で、晋書天文志では三国志の時代からの知識を扱っています。つまりここでの科学知識は、三国時代の基礎知識である。

地理観を推理するために重要なのが。

🐢一寸千里の方

です。

太陽の角度の差異から、地上の南北距離を簡単に計算できる。

中国では大地は平面と信じていましたから、誤差はありますが、かなり客観的に長い距離を知ることができた。

😄長さ八尺の棒を立て、夏至の正午に影の長さが一寸違えば、地上の南北距離は千里である。😄

簡単でしょ。これから当時の一里を計算すれば、約75メートルの短里だったとわかります。千里は約75キロ。

だから、郡より女王国まで一万二千余里、という記述だけでも、沖縄はほぼ確定なのです。つまり、影の長さの差が12寸だったというわけです。

まさに東冶の東にある、という記述にも天文学的な客観性があるわけです。

(長くなるので、中休み)


出発点の帯方郡をどことするか判然としませんが、ソウルのすこし南でしょう。韓国を海沿いにぐるりと回ります。プサンの手前あたりから、渡海がはじまります。

千里で対馬、また次の千里で壱岐、ここまでは問題ない。

また千里で松浦?定説では唐津あたりとされます。が、それでは五百里しかない。筑紫平野を目指すなら、なぜ博多を目指さない。

壱岐から千里の松浦地域、私は佐世保あたりと判断します。海路はいったん終わります。韓日を専門とする船頭はここで引き返すのでしょう。

あえて政情不安な内陸は避ける。

陸行き南東へ西彼杵半島を長崎へ。ここに女王国の出先機関である、イトがある。長崎湾の入口に伊王島があります。海上要塞かも。東南百里で奴、東に百里でフミ。諫早市の南、橘湾の港町でしょう。

さあ、大航海です。水行き20日で、トマに。アマミを奄美と書きます。奄とはおおい、屋根のこと。さらに空のことでしょう。いおり、とまや、の屋根の国で、トマ。

奄美から水行き10日で、沖縄。

一月の航海で、魏の使者はくたくたです。たっぷり休んで、集落ごとに大宴会を楽しみながら、一月かけて、ヤバ壹国へ。

(しばし休憩中)


では再開。

ヤバ壹の壹は、臺の誤字だとして、木村先生ふくめ、やま台、と書いています。しかし、臺は皇帝を意味する神聖文字で中国の役人が間違うはずがありません。壹、壱、で、ヤバイ、です。

後々、仁徳から雄略が宋に正式に朝献を繰り返し、倭人から倭国に表記が代わります。

宋で編纂された後漢書では、もとはヤマイだったとただし書きをくわえる。

さらに聖徳太子の遣隋使に、琉球からの献納品を見せたら、倭人はそれはヤク人つまり南方の国のものだと説明する。ああ違う国かと、隋書は倭国伝と別に琉球伝を書く。さらに、遣唐使の時代になり、ヤマトと日本国が統一して日本になりましたと報告される。ここでいう日本国とは、エミシの日立の国を指しているようだ。日本とは、エミシからいただいた国名のようです。聖徳太子の時代にはエミシは偉大な先住民と尊敬され、最高権力者も名をエミシと名乗った。

ヤバイ、ヤマト、日本、と中国の歴史書では変遷してゆく。漠然たる東海の島国の地理的配置も徐々に整理されていくが、民間にはデタラメな地図が流布しつづける。

欧米の民間人に日本はどこですかとクイズを出して、中国を指すような程度の、変な古地図をみて議論するようなことは、やめにしよう。


魏志倭人条にもどる。

自然、風俗の記事は、いかにも南国である。注目したいのは、大人から下戸までみな一夫多妻であること。だから後々、中国の歴史書には、日本は女がいっぱいいると、書かれた。しかし、沖縄の話なら、男は大航海を生業とし国におらず、遭難者も多かったなら、女があまるのは当たり前です。必然的に国王も女のほうが、平和になる。


中国の三国のうち、呉は海軍国でした。揚子江の内陸から東シナ海まで海軍力で支配していた。

ヒミコと対立していたのが、南にあるクド国です。王がヒミクコ、役人がクコチヒコ。沖縄から黒潮の流れる荒れた海を越えて、宮古島がある。宮古を呉音で読めばクコです。宮古島の背後には呉の軍事力がある。

ただし、呉は東へ大船団を送るが、目標は不老不死の蓬莱国でした。彼等が何処にいったか、わかりません。

沖縄と宮古島の対立には、魏と呉の代理戦争であった。だから、魏の使者は長期滞在して正確な報告書を残した。中国人の常識からすると女王など蔑視の対象です。しかし、倭人条から蔑視の見解は見えてきません。魏にとり、沖縄の重要性は大変なものです。魏の使者は最重要課題として、調査にのぞんだはずです。

(休憩)

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朝日新聞出版、2014年。

「マヤ、アンデス、琉球」は環境考古学という新しい学問の成果をまとめています。ヒミコなどかけらも扱っていません。文献史学の論争なんかに関わらない学問です。

メインとなるのは、湖底の地層調査です。若狭の水月湖では正確な一年単位の縞模様が見つかり、放射性炭素年代方の修正基準の最新データとして国際標準になっています。

沖縄では珊瑚礁で区切られた内海が、湖のかわりに安定した地層を観察できます。羽地内海で、286㎝の海底コアが採集されました。最下層に外洋性の貝類と枝珊瑚の集積が確認された。外洋の海底からこれらを運んできたのは、巨大津波しか想定できない。

この集積層上部の枯葉の炭素年代測定結果は二世紀前半を示した。

これは私の解釈だが、巨大津波の結果だとすれば、湖底は一定撹拌されて、層序は逆転する。津波があったのは、二世紀後半から三世紀となる。

晋書天文志、268年、隕石が雨のようにみな西に流れる。

魏は晋となり、247年ヒミコの死の後も、女王国の新国王壱与からの使者は続いた。が、ほどなく、便りは途絶する。

内陸での観察で、無数の隕石片が西へ流れるのは、巨大隕石が東シナ海で大爆発をおこした、のだろう。海軍国呉の軍事力は潰滅し、軍人の多くは晋に逃亡す。

琉球は死の国、常世となる。

隼人は津波の記憶を舞楽にのこす。

そして、ニギハヤヒ=大隕石、という名の男が、畿内のトミの国にやって来て、王として手厚く迎えられ、ヤマトの国が始まった。

終わります。


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