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べにばな~末摘花~と聖徳太子御影

花の話で紹介しておかなければならないのは、華道の元祖は小野妹子ということです。仏前に花を供えることから生まれた芸能ですから、聖徳太子の部下であった小野妹子が元祖である、という話は信じるにたりるでしょう。

今日、仏前の花といえば菊です。しかし、万葉集には菊は登場しません。日本に菊がもたらされたのは、早くとも奈良時代以降です。

では、小野妹子はどんな花を仏前に供えたのか。おそらく、末摘花~べにばな、です。

べにばな、末摘花、と聖徳太子像。


今は仏前に菊を供えるが、飛鳥時代にはべにばなが重用された。藤ノ木古墳の完全に未盗掘で発見された石棺にも大量のべにばながおさめられていた。

亀井水と同類唯一の飛鳥の亀形水盤の水路からも、べにばなの花粉が発見されている。


べにばなのはなびらは、水に何度かさらしているうちに、紅色が残る。紅色の染料としてもちいられた。それまで、朱色は水銀がもちいられたが、毒性が強く、飛鳥時代に渡来したべにばなは安全な染料として普及する。

さて。

聖徳太子像である。

今、我々が聖徳太子像と信じている姿は、奈良時代の役人像であることがわかった。作品としてもデッサンが不自然で、明治以前はほとんど知られていなかった。法隆寺が皇室へ献納したことで、お札のデザインの下絵とされて、昭和以後世に普及する。

四天王寺楊枝御影

べにばなの朱一色の衣装を特徴とするのが、亀井水の影向井由来の、楊枝御影である。立体像の名作が法隆寺聖霊院秘仏太子像であり、朱一色の衣装の色の痕跡がわかる。並びの人物像の衣装には紋があるが、太子は無紋で質素である。

法隆寺秘仏聖徳太子像
平安時代
なんとも男前です

平安末から中世にかけて、聖徳太子像として普及したのは、楊枝御影であった。

江戸時代には、少年像、幼児像が庶民信仰のなかで重視されてゆく。

源氏物語に、末摘花、という女性が登場します。可憐でいて、仏の世界に通じる、はかなげな花の乙女でしょうか。ただ、光源氏の目には、貧相で不器用な女としか映りません。しかし、人生の苦労を味わい時をへて、再会した末摘花の古風な性格に、光源氏は魅力を感じるようになります。

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