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宮沢賢治とガンジー、非暴力の模索

私たちが生き残るためには、力への屈服ではなく、和と非暴力への探究しかない。


ガンジーの眼鏡


懐疑なき宮沢賢治崇拝には組しない。


宮沢賢治が物語スタイルで、菜食主義対肉食肯定の大激論を試みた、小論文とみなしていい作品です。賢治はいつのころからか、菜食主義の粗末な食事を徹底し、それがために栄養失調で命を失う。彼の多くの自己犠牲の物語は、そうした禁欲のなかから紡がれた。

宗教的禁欲に、賢治は全面的に帰依したのだろうか?そうとは言えない、懐疑を秘めた作品です。

賢治は、友人は作っても、弟子や信者を作ろうとはしなかった。指導者、教祖、政治家たることは、厳しく拒んだ。

菜食主義の国際大会。そこには、あえてシカゴ畜産組合なる男たちも招かれ、議論をたたかわせる。中には、浄土真宗の門徒を自称する男もあり、主人公は仏教の菜食主義のゆえんを語り、クライマックスを迎える。

そして、最後のどんでん返しで、シカゴ畜産組合は実は劇団の役者たちであり、儀式として菜食主義に改宗する演技をして、万雷の拍手喝采のなか、大会は終わる。

だが、主人公は、その演出に苦々しい思いで立ち尽くす。

賢治は、信仰の人である。しかし、科学者として分析の人である。集団催眠は、信仰ではないと、煩悶する社会学者である。


20世紀、徹底した、禁酒禁煙菜食主義を実践した、二人の人物をあげる。

まず、ヒトラー。健康が、命より大事、という倒錯した純潔主義で、障がい者とユダヤ人を殺戮した。まさに、集団催眠のやからである。

そして、希望を求めて、ガンジーについて語りたい。非暴力非服従を唱え、国民がゆがみあうときは、断食行にはいり餓死直前まで和平を祈る。しかし、ヒンズー教とイスラム教の対立は解消できず、暗殺されてしまう。

ガンジーは、多くの人を惹き付ける。しかし、あまりの自己抑制の厳しさに、結界をもうけてしまう。私の命は一つの実験にすぎない。それが、真実であるかどうかは、私にはわからないとガンジーは自伝のテーマを定める。


宮沢賢治の自己犠牲のファンタジーは、虚構である。銀河宇宙を包む壮大な意識と同化を求めながら、孤独な小動物のように無力だ。

おお朋だちよ、と呼び掛けはする。しかし、ほとんど自死としか見えない強烈な命の結界に、戸惑うしかない。


ビジテリアン大祭、という茶番劇を、賢治はなぜ書いたのか。懐疑。あの、雨ニモマケズ、は懐疑ではないか。

その後ろ、真の遺言といえる詩は、

「くらかけ山の雪

     友一人なく」

と書き始められる。

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