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武士道は国家権力批判である~郷の論理

「郷にいりてクレームをつける」

大阪ではタワーマンションが林立している。南海トラフ大地震の長周期振動に、五重塔のように耐えられるのか、いらぬ心配をしてしまう。私は高所恐怖症だから、なおさら怖い。そのタワマンの新住人が、地域の祭りがうるさい、とクレームをつけたりする。
そんな、地面から浮遊した根なし草の感性が、大阪市を廃止する、などという妄想にとりつかれ、#維新の会、を支持するようになる。

いま日本全体で、郷が弱体化している。大都市にも、郷、はあるのだが、では古いお祭りを守りさえすれば、郷は生きてゆくのか。

そんな単純なものではない。因習にとらわれることと、郷とはちがう。

因習といっても、意外と歴史は浅いことが多い。四天王寺はお寺なのに、なぜ鳥居があるのか?今は神社と寺院は別という因習が確固としてあるが、これは明治維新政府が強制した新しい観念です。

天皇制にしても、現在の憲法に定められた、象徴天皇制が、実は遥か千数百年の伝統であった。絶対君主としての天皇制は、やはり明治維新政府がヨーロッパの一部の王制を模倣したにすぎない。

戦前の官製道徳は日本の伝統なのか。聖徳太子を持ち出すまでもなく、日本人は融通無碍な柔軟性を、和、と呼んだ。明治から昭和初期の日本は、どうも異質だ。


武士道の古典とされる、#葉隠。写真は、佐賀市内にある、#山本常朝旧跡、葉隠誕生の記念碑です。

葉隠は、書き出しの、武士道とは死ぬこととみうけたり、という一言で誤解された傑作です。語り手の山本常朝は、そういいながら、平和な時代を満喫し、長生きした。長生きしたから、そんなおしゃべりができた。

雨が降りだして、なんで走り回るのか!濡れるもんはしょうがないではないか。それが武士というものだ。うん、同感。


常朝は、儒学仏教にも通じた知識人です。しかし、佐賀の鍋島藩の城下でこう語る。孔子も仏陀も、天皇も将軍も、なんぼのもんかはともかくとして、一番偉いのは目の前の我が藩の殿様だ。

どうです、この逆説の切れ味。


辺境の特殊性、ローカリティを腹にすえる。


東京の真似しで、偉くなる。そんなおとぎ話は一刀両断。それが武士のタマシイ。

生きている郷が豊かな宇宙である。それを感受できないで語る普遍倫理は虚構にすぎない。郷には、融通無碍な和の精神が流れ、多元宇宙に開かれている。

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