推古30年、日本書紀の明らかな改竄
見出し写真は亀井堂裏の石垣。ここにのみ、創建当時の石垣が残る。
日本書紀の明白な記事改竄について。
日本書紀には、聖徳太子の死亡を推古29年2月5日と書かれています。
法隆寺釈迦如来光背銘や天寿国繍帳では、推古30年2月22日と記録されています。
法隆寺、四天王寺はじめ、おおむね推古30年説を採用しています。
2022年が1400年忌となります。
日本書紀には明らかに改ざんの証拠があります。推古30年そのものがまるごと消されているのです。しかし、用明紀には聖徳太子の異母姉妹で伊勢の斎宮を勤めた酢香手姫が推古30年に死亡したことが、推古紀に見えると明記されています。つまり、推古30年紀があると日本書紀は明記しながら、それを削除してしまった。聖徳太子の死亡記事を前年に書き換えてしまった、
おまけに、干支の記載を見ると、32年33年の干支が31年32年のものとなり、31年の新羅の朝見と対立の動乱の記録に干支がない。
新羅は仏像と仏具を献呈するが、まだ国交が正常化したわけではない。仏像は国立寺院である四天王寺に納められないから、秦氏の太秦寺がひきとる。仏具には魂がこもっていないから、四天王寺に納めた。
31年の新羅朝見の記事は、30年の聖徳太子追悼の法要の関連記事でしょう。法要は四天王寺で行われたから献呈品は四天王寺に納めた、と考えられます。
おそらく、亀井水のことも記載されていたのではないか。
聖徳太子追悼法要の詳細な記事がまるごと削除された。なぜでしょうね。
ひとつの推理として、日本書紀には天寿国繍帳の記載がない。推古が孫娘であるタチバナのために、聖徳太子追悼の大がかりな美術品をつくらせた。これは、上宮王家の正后がタチバナであることを示すためともいえます。山背大兄王が上宮王家の継承者であるためには、タチバナをどう処遇するかが問われる。
いや、逆かもしれない。タチバナが山背大兄王をどう処遇するか。
簡単な解決法は、山背大兄王が自らの正后としてタチバナと結婚する。しかし、山背大兄王にはそんな胆力はない。上宮王家の内部の混乱がその後の歴史にも影響する。それは、日本書紀は書きたくなかった。
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