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一遍聖絵の四天王寺~中心伽藍の東の亀井水を含む地域の重要性

#一遍聖絵 、の四天王寺。

一遍がなくなって十年後に完成した。一遍の生涯を知り尽くした、おそらく弟の、聖戒が、絵師を伴い現地調査に全国を行脚し完成させた、超一級の歴史資料、宗教美術の名作である。

四天王寺と亀井水に注目して、要点を再確認する。

写真1*第二巻

1274年、故郷伊予を旅立った一遍は、四天王寺で南無阿弥陀仏の札を配り始める。しかし、信仰の確信を得られないまま、熊野へ向かう。

本文より四天王寺の説明。

「この伽藍は釈迦如来転法輪の古跡、極楽東門中心の勝地なり。五十余代の帝王尊崇あらたまらず。六百余廻の道場星霜ふりたりといへども、雁塔いらかくちずして、露盤ひかりかがやき、亀井ながれひさしくして、法水たゆる事なし。」

四天王寺の説明に亀井は欠かせない信仰の証であった。龜の字が、ほぼ亀に近い草書体になっている。

写真2*3*第八巻。

1285年、四天王寺金堂の舎利礼拝の奇瑞。

「毎日にいだしたてまつる御舎利、つぼの中にとどまりていで給はぬ事、累日なりけるを、執行申旨ありければ、聖、七日祈請していだしたてまつるに、三粒の御舎利ことごとく出現し給へり。」

写真2では金堂の向こうの、東重門(中心伽藍の出入口)が巨大複雑な桧皮葺であるのが、注目される。つまり、亀井水のある中心伽藍東境内地は、特別な聖域であった。

しかし、江戸時代冒頭の再建では東重門は省略され、昭和の戦後になり東重門が作られた。現在、東西の重門に設計の差異はない。しかし、東重門の特異性は、誰も指摘しなかった謎である。

写真3は、同画面の左。

平安末から鎌倉初期、四天王寺の別当を務めた、慈円の歌から、亀井水にはお堂はなく野外の施設であった。

ここに描かれたのが、お堂としては最古の姿となる。ごく小さな建物であり、二つの石槽を保護するために囲っただけである。

四天王寺は浄土信仰の霊場として、貴賤をとわず、また病者障害者が集まる場所であった。亀井水には排水路で自由に触れることができるが、二つの石槽は厳重に保護されたのであろう。

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