明治末の改造で、亀のありふれた噴水と取りかえられた影向井は、西門手水鉢になった。
明治末の改造以降、暗い底の亀形水盤が亀であることに、みな気がつかなくなった。影向井にかわり取り付けられた、亀の噴水が主役だと、誤認が定着する。
亀井水は明治につくられた、という話が、定説のごとく語られる。
江戸時代初頭、廃墟と化した大坂の再建は、まず四天王寺から始まった。
その再建の図面が残された。元和再建図、の亀井堂部分。
はっきりと、亀形水盤が画かれ、その手前、床下からのぞいている影向井が画かれる。
再現図。作画、かめのこたわし。
戦後、西門が再建された折りに撮影された、真っ黒な手水鉢。
現在の手水鉢。三代目。初代の真っ黒な手水鉢は、文化財指定されたにもかかわらす、失われた。
前面の凸部は、亀の顔に見えないではない。ここには、出水孔があった。
大阪府文化財保護課には、短い説明文だけが残され、寸法の概要は知ることができた。
ヒントになったのは、水面の縦横比率である。亀井が、2対1。影向井が、1.73対1。
1.73は、ルート3。正三角形の定規でかんたんに作図できる。
亀井の身長が212cm。これは、飛鳥時代の高麗(こま)尺の、ちょうど一間である。
高麗尺1間を単位に座標を定め、亀井と影向井の水面の位置を、記録どおりに製図する。
水面からの距離と高さが、水面の縦横比率と一致する。つまり、遠近法である。
亀井水を見下ろす角度が25度から30度。真東の太陽がこの角度になるとき、亀井水は水鏡としと燦然と輝く。
時期は、穀雨と処暑。このとき、朝日は、生駒山の山頂部、日下、くさか、から登る。
日下は、日本の国名の起源ともいわれる。
そう、亀井水は、日出る国の祭祀場だったのです。
斉明天皇による飛鳥の亀形水盤と、亀井水は、寸法、規模、構造がまったく同じです。飛鳥の亀は北向に設営されています。見る視点が定まっていないので、幾何学的な配慮はされていない。
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