亀井にまつわる二柱の神様。龍と猿田彦、水と太陽
龍の指の数と亀井水
🐲🐢🐢龍の指の数。そして、亀井と飛鳥の亀の指の数。四本です。なぜ🐍
写真をよくご覧いただければわかりますが、亀井の足の指は、それぞれ、四本です。
飛鳥酒船石遺跡で発見された亀形水盤も、四本指です。亀井の四本指は、四天王寺の地主神である龍神様の変化と、私は考えています。
龍の指の数は、基本的に四本です。最近の龍画では五本に描かれることが多いです。中国では、五本指の龍は皇帝のみが装飾に用いることを許されてきました。
龍神は水神として、原形はへびです。羽根はないけれど、水が大気圏を循環するように空を巡る。飛翔する鳥の属性として、指は四本なのです。
四天王寺の立地する場所は、伝承では仁徳帝のとき巨大古墳が造られようとした。しかし、地主神の怒りにふれ中止され、古墳は百舌鳥の地に造られることになった。
神の怒りとは、台地の上にもかかわらず、予想外の地下水が湧き、その処理が出来なかったからと推測されます。聖徳太子は龍神を守り神として地下に封じ、四天王寺を建立した。つまり、地下水の治水工事を行うという、特別な基礎工事がおこなわれたのでしょう。四天王寺の着工が遅れ、またその間玉造の岸に仮の四天王寺が置かれたわけです。
また、この場所の特殊性は、生駒山地との関係にもあります。生駒山地の中心部に対応し、朝日が生駒山地の北端から南端へと巡る。中でも、生駒山頂部から朝日が昇る、穀雨と処暑の時期、真東に達した太陽が亀井水を最も輝かせるように、幾何学的に亀井は設営されています。
生駒山頂部の麓は、日下=くさか、です。民俗学者の谷川健一先生は、日下が、ヒノモト、日本の国名の起源であると述べられています。
ヒノモトの国の太陽礼拝と地下水の龍神信仰が交わる、光の舞踏。四天王寺創建の忘れられた情熱を、亀井水は明らかにします。
猿田彦は本来の太陽神か
#庚申 、#亀井水、#猿田彦、#ヒルコ、#スーリヤ
庚申が太陽信仰だとすれば、徹夜して庚申の朝をむかえる、という風習も説明できます。
ならば、伊勢の太陽信仰が改変されていく時代に、元の太陽神をひそかに礼拝する、抵抗運動であったということになります。
四天王寺でなぜ、庚申信仰が生まれたと語られるのか。思案していると、とんでもない仮説に至りました。
くどいくらいに、亀井水は朝の太陽礼拝の水鏡だと、説明してきました。
聖徳太子は二歳の時から、朝東の空を礼拝していた。そのお姿は、信仰の対象として大切にされてきました。
聖徳太子の異母姉妹、すかて姫は、伊勢の斎宮として勤めています。
では、聖徳太子が礼拝していた太陽神はなんだったのか。
アマテラスではないでしょう。
アマテラスが皇祖神と確立するのは、持統天皇が自らの分身としてヒルメをアマテラスとして定めてから以降でしょう。
日本書紀の皇極紀には、伊勢の大神の使いとして、猿が語られます。
伊勢の大神とは、猿田彦ではないか。
ヒルメは捨てられた神ヒルコと兄妹の一対の太陽神、縄文的神であった。ヒルコの、おなり神が、ヒルメ、アマテラスであった。神話のなかでは、気の弱い女神です。兄ヒルコを捨てられたのだから、トラウマにもなります。
そんな女神が、天皇の分身として祭り上げられる。でも、寂しいと泣いてしまうから、トヨウケをカウンセラーに招いて、やっと形が整います。
猿田彦は、伊勢でも祭られていますが、主役ではなくなる。
しかし、持統天皇の時代まで、主役は猿田彦ではなかったか。
写真は仏教の日天、スーリヤです。
伊勢の太陽神は、塩田の神でもあり、猿田(エンデン、さるた)とも変換される。塩土の神は、海路を導く道祖神でもある。
またスーリヤが容易に、サルタに転化したのではないか。塩の神は、太陽と食の神である。それがアマテラスとトヨウケに置き換えられた。
天皇の伊勢参拝は明治から
持統天皇いご、歴代天皇は伊勢参拝はしませんでした。明治天皇が初めて伊勢参拝なさった。宮中で皇祖神であったのは、タカミムスヒです。北ユーラシア由来の太陽神です。
持統は退位して太上天皇となり、702年になくなります。アマテラスを中心とした祭祀の確立に追われていた。
持統天皇の個人崇拝へのプロテスト
そんな時、701年、四天王寺に庚申神が出現する。それは猿田彦の荒御魂、荒神ではなかったか。猿田彦とするわけにいかないから、荒神を庚申といつわり、帝釈天の使いとして、その太陽信仰を守りぬいたのかも。
また同時期、京都の秦氏は、猿田彦を含む稲荷信仰をおこします。稲荷信仰は庚申信仰とともに、アマテラス信仰以上に日本人に定着してゆきます。
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