大好きだからこそ、
どうも、仮名です。
先日、祖父が他界しました。
何歳だったのか覚えてないけど、確か八十代後半だったかな。
最後に会ったのは祖母の四十九日で、その時はまだコロナが流行り出す直前で、たくさんの親戚の前で涙ぐみながらいろんな話をしていたことを覚えています。
三年前の記事で、祖母のことを書きました。
祖母は私を天才だと褒めて、祖父も同じように目を細めていました。
「じいちゃんには孫がおるんよ」
そう言って連れてきてくれたのは、祖父が小さな畑を間借りしている近くの倉庫でした。
倉庫の中には一つの事務机と、カレンダー。そしてたくさんの水槽でした。
水槽の中にはたくさんのメダカがいて、それらを祖父は孫だと話してくれました。
「このメダカが孫なら、じいちゃんはまだまだ元気でいないとね」
「そうじゃのお」
「九十歳までは元気で生きててね」
「仮名に言われたらそうしなあかんのぉ」
そう快活に笑ってくれていたのに、それは本当に突然でした。
祖父は母さん宛に送ってくれていた荷物の中に、必ず私の好物のじゃがいもと大野のりを入れてくれていました。
それももう、叶いません。
もう祖父から送られてくる荷物は、ないのですから。
四十九日のとき、祖父と沢山の約束をしました。
美味しい阿波尾鶏のお店に連れて行ってくれることや、並で頼んだらかなりの量が出てくるうどん屋さんにもう一度行くこと。
そして、元気でもう一度会うこと。
四十九日後から日本では第一波が猛威を振るい、それ以来徳島に帰ることは叶いませんでした。
もちろん三回忌も行けず、叔父は祖母の納骨をしないまま時が経ち、突然の訃報が届いた現在も、コロナはとてつもないスピードで流行り続けています。
コロナは全てを奪い去ってしまいました。
お葬式に行くことも、祖父と最後の会話をすることも、最後の顔すらも拝めないのです。
大好きなじいちゃんは、私が作家になることをずっと楽しみしてくれていました。
叔父に電話したとき、私と母さんが徳島に帰るまで納骨はせずに一緒にいると言っていました。
それが私たちにできる最大の配慮だ、と。
田舎特有の話の広まり方のせいもあり、私たちを含めた遠方の親戚は誰一人お葬式に行くことができないまま、祖父は明日お骨になります。
祖父と祖母は、もういない。
大好きだった徳島の景色も、撫でてくれた手も、暖かな家も、心に残り続けている幼少期からの思い出も
まだなにも消化できていません。
これから離れていた時間を埋めるはずだったのに。
何を恨めばいいのか、明日からどうして生きて行けばいいのか、今は立ち直れないほど苦しいけれど
きっと二人はそんなことを望んでいないだろうと、残された私の勝手な思い込みで生きていかなければいけないんでしょう。
じいちゃん。見ててね。
私、絶対叶えるから。
その時は、夢でもいいから遊びに来て。
早く大手を振って帰りたいな。じいちゃん、それまで待っててね。
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