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気づいたら繰り返している「選択の罠」

 死ぬまでやめられないことっていくつかありますよね。

「息すること」とか「食べること」とか、どれも当たり前すぎてほぼ無意識にやっていることです。そんな深く考えもせず、絶え間なくやっていることのひとつが「考えること」という皮肉。

 人は常に何かを考えています。しかも、今やってることと考えていることが別々で、仕事をしながら晩ごはんは何にしようと考えたり、頭はいつもフル回転。

 結局、やっていることも考えていることも心ここに在らず。だから、その深さもたかが知れています。

 そして、その思考によって毎日、毎瞬、人は何かを「選択」して生きています。仕事や家事や何であれ、何かをする前には必ずそこに「望み」があって選択し、行動します。

 すべての行動が自分の望みなのですから、何ひとつイヤなことなどないはず。でも、現実はそんなことない。それはなぜかと問うと、すべては望みではなく、義務や責任もあるから。多くの人もそう考えるのではないでしょうか?

 いわゆる「ねばならない」ことをこなしている状態です。しかし、それでも選択は自分に委ねられています。義務や責任からだとしても、それを最終的に選択するかしないかは自分次第。まさに、私たちには自由意思があります。

 生命にかかわるようなことならともかく、ほとんどの「ねばならない」には、それをしない選択が可能です。ただ、しない選択をすると不都合があると思っているだけ。

 いや、さらに考えを深めていくと気づきます。それは不都合ですらないことに。今この状況でコレを"しない"選択をするとまわりにどう思われるかわからないから"する"を選択する。会社の残業などは好例かもしれません。つまり、その不都合を回避したい、それが自分の「望み」だということ。

 ただ、日々当たり前にやっている選択は、すべてが自分の望みとは限りません。それは家族や上司や社会が求めることだったりします。法的強制力があること以外は「ねばならない」わけではないのです。

 人生はさまざまな選択の連続です。何を選ぶかで人生は大きく変わります。いつもの自分と違う「選択」をしてみると、まるで違う心地よい景色が見えるかもしれません。そこそこ勇気が必要で、エイヤー!とやってみたら意外と何でもなかったということはたくさんあります。

 時々でも振り返る時間をもてるといいですね。わかっているつもりでも、気づいたらまた自分以外の誰かの望みを満たすために選択していたりします。

 まずは、自分の望みを聴いてあげましょう。そうすれば自分の選択にイヤな感情はなくなります。お休みの日くらいしかそういう時間はもてない人も多いはず。今夜はゆっくり自分とおしゃべりしてみてはいかがでしょうか?

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