見出し画像

文章の話しを書こうとしていたら、好きな漫画のことを書いていた

当たり前の話だが、
商業的に販売されているプロの作家の文章力は
圧倒的だ。
最近、自分のものを含め、
blog、noteなど一般の方の文章を目にする機会が増えた。
そのせいか、読みながら考える癖が付いた。
ところが、ふと買った電子書籍を、
何の苦もなくつらつらと読んでいる自分に気が付き驚いたのだ。
もちろん、著名な作家の大手出版社から販売されている商品なので、
きちんと校閲され、推考されたものだし、
まったく当たり前だが、
読み易く、リズムがあり、気が付くと読み進んでしまっていて、
ある意味、衝撃的だった。

自分の文章も、他人に読まれる事を前提とした場合は、
一応、読み直し、書き直したりと、
手を加えてはいるのだが、
ふと、後で読み返すと恥ずかしいを通り越して、
愕然とさせられる事さえある。
所詮、自分は一般庶民で商業作家なのではないのだと。

これは文章だけではない。
自分も趣味で絵を描いているが、
それはあくまで趣味のレベルだ。
小学生や中学生の頃は、
教科書やノートの隅に書いている落書きを、
クラスメートに褒められたりして喜んでいたし、
密かに漫画家という職業に憧れていた頃もあった。
だが、それも才能あるプロの先生方の作品の前では、
霞むどころか、体裁さえ為していなかった。
それでも、下手の横好きを続けていたのだが、
ある作品との出会いをキッカケに、
あぁ、自分は漫画家などというものに
憧れてはいけないのだと気付かされた。

それは、大友克洋の『童夢』だ。

今読んでも、初めて読んだ時の衝撃が蘇る。

多くの人が漫画に求めるものは物語、
ストーリーだろう。
が、私にとって漫画の物語は二の次だ。
絵、構図、もっと言えば『線』こそが読みたいもの。
観たいものなのだ。

大友の線はフランスの漫画、
特にメビウスの模倣とも言われている。
確かに似ているが、
やはり、大友克洋の線は、大友の線だ。

今でこそ大友克洋はあまり漫画を描かない。
活動の主軸はアニメーションにある。
そうなる以前、
大友克洋の名前を世間に知らしめた作品
『AKIRA』と
さらに、それ以前の商業誌ベースではない絵の間にあるもの、
それが童夢だ。

AKIRAで大友が手に入れたものは、
商業誌が求めるカッコ良さ、
少年誌の持つ面白さだが。
それ以前の大友の漫画は、
いわゆる『ガロ』が求める独特の芸術性と、
ある種のマイナーなユーモアのある作品だった。

大友を売れっ子にした一般性と、
芸術的だがマイナーの持つ独創性の間に位置するのが
童夢、と言う作品だ。

時間が空いて完成された作品ゆえに、
書き出しとラストで絵も違うし、
構図や迫力も違う。
それも、この作品の魅了だったりもする。

ハリウッドが映画化に向け版権を買った
と言う話も訊いたがどうなったのだろう。

確かに大友の絵は、一見すると
ハリウッドの超大作のストーリーボードのようだ。
が、彼の漫画を超える映像を実写で造る事は簡単ではない。
現実的に見える大友の絵は、
作品として完成されており、
それだけで成り立ってしまうからだ。

事実、彼が彼自身の作品をアニメーションにしても、
漫画を原作とするものはつまらない。
アニメーションとしてオリジナルのものは別だが、
彼の漫画の映像化は、
大友克洋自身をしても困難な作業なのだろう。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?