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綺麗な人 前編

愛情深く冷淡な父と、父の連れてくるお客さん。最初の、私の世界の全てである。そこに新たな母が加わり、私の世界が出来上がった。父について語ることはそう多くない。必要もない。私が語るべきは母のことである。ところで、皆、人ならば考えたことがあるのではないか。            
 曰く
「良いものとは何か?」
 一般に、高価なもの、使いやすいもの、1つしかないもの、エトセトラ。
 私にとって「良いもの」とはつまり「美しいもの」。
 美しいものは良い。
 綺麗なものはもっと良い。
 綺麗で美しければ完璧だ。
 母は完璧な人だった。綺麗で、美しくて、さらに優しくて、正しくて、暖かい。母こそ、この世で最も綺麗で美しい人だ。
 私が母と出会ったのは、7歳の時だ。父が連れてきたお客さんの1人だった。一目見て、綺麗だと思った。真っ直ぐな栗色の髪、透き通る青の瞳は伏し目がちで垂れていて、唇は優しく弧を描いていた。しかし母を完璧たらしめているのは肩から直接生えた手であった。彼女には腕がなかった。私は彼女の背中に天使の羽根を幻視していた。
「彼女が誰だか分かるかい?」
父の問いかけに私は半ば呆然としながら首を横に振った。彼女からはほとんど何も、知ることができなかった。それもまた彼女の神秘性を高めていた。
「この人のことをどう思う?」
 父は母の肩に手を置きながら聞いた。私はゆっくりと口を開いた。何も言わずに椅子に座っている母が天使のように見えて仕方なかった。
「きれいな人」
 父は少し驚いた顔をした。この時は大して気にとめなかったが、今思えば、この返答は父にとって青天の霹靂だったのだろう。母に出会う以前に私は父の持ってきたあらゆるものについて綺麗と言ったことは無かったから。
 そして母も驚いた顔をした。後で母はこの時のことを思い返して言った。
「私を綺麗と言ったのは後にも先にもあなただけよ」
 父は微笑んだ。
「この人は、お前の新しい母さんだよ」
 私は雷に撃たれたように立ち上がった。この、とても綺麗な人が、私の母さんになる。あぁ、なんて、なんて!
 私は母さんに駆け寄った。この嬉しさを、喜びを、言葉にする術をこの時の私は持たなかった。ただ、子犬のような目で母さんを見上げた。
 母さんは微笑みを浮かべて言った。
「これからよろしくね、アレナ」
 福音のようだった。優しく、暖かい、まるで白百合のような声だった。
 私はこの時、「母さん」と言う単語は、つまりあなたのためにあると了解した。以来私は母さん以外の人を母さんとは呼ばなくなった。私を産んだ母親も例外ではなく。
 感極まって抱き着いた母さんは誰よりも柔らかく、温かく、私は幸福であった。
 母さんと一緒に住み始めた後も、父はお客さんを連れて来た。私は母さんとずっと遊んでいたかったけれど、母さんが、あなたがお客さんとお話しているところを見たいと言うから、仕方なくお客さんと話をした。
 お客さんは皆、私の特異な才能を目当てにしていたのだと、後から知った。父は見世物小屋のようなことを、私を使って行っていたのだ。特に、思うところはない。
 私がお客さんと話していると、お客さんは皆手を叩いて笑い、もっと、色んなことを話して欲しいと要求した。私はそれに応え、父がお客さんを連れて出ていくまで話し続ければよかった。
 人と話すのは大好きだった。私が話せば相手が笑ったり、驚いたりしてくれたから。それが良くなかった。私が話せば皆幸せになるのだと、勘違いしてしまった。私の世界は狭かった。
 エレメンタリースクールに入学して、私は外の世界の異常さに気がついた。誰も、私と話していて、笑ってくれない、驚いてくれない。ただ、怒って私に背を向けた。
 私の常識とは、私だけの常識であったのだとこの時知った。
 父は気にする事はないと言った。
「お前の才能の素晴らしさが分からない奴らを気にかけることは無い」
 そう言って私の頭を撫でた。
 母さんは違った。私の目をしっかり見つめて、厳かに言った。
「あなたは人を怒らせない話し方を身につけなければなりません」
 既に私の世界の中心は父から母さんへと移っていた。私は母さんの言葉に頷いた。
 それから母さんは人とのコミュニケーションの仕方を教えてくれた。
 相手の何が分かっても、それを言わないこと。
 相手が教えてくれたことだけ、言うこと。
 私の才能をむやみに言いふらさないこと。
 丁寧で、優しい言葉を使うこと。
 母さんが教えてくれたことはずっと役に立った。相手は怒らなくなった。代わりに醜くなった。友人はできなかった。
 学校へ行って、帰って、勉強して、母さんとお話して、寝て、起きて、学校へ行って。同じことを、何十、何百と繰り返した。辛くはなかった。
 どれだけ歳を経ても、母さんは美しくて、綺麗なままだった。私はそれが誇らしかった。

 ある日、父に殴られた。12歳の頃だった。父は何事かブツブツと言っていたけれど、要約すれば、私の真似事をしようとして失敗したらしい。母さんは私を殴る父を見て慌てて止めに入った。
「あなた、やめてください!」
 母さんが声を張り上げたのはこの時だけだった。
 母さんは人一倍か弱かった。無論、為す術もなく父に払いのけられて、後ろに倒れた。
 私は、初めて父に反抗した。父の手を振り切って母さんに駆け寄った。母さんを抱き起こして、そっと頬に触れた。父が何か怒鳴っていたが、聞こえなかった。
「母さん、大丈夫?」
 母さんは大きな音が嫌いだった。私は叫び出してしまわないように努めて冷静でいようとした。母さんは少し憂いた表情をしながら頷いた。
「えぇ……あなたは?」
「私は大丈夫、大丈夫だよ、母さん」
 私はしきりに、何度も頷いた。きっと泣きそうな顔をしていた。私は母さんを抱き締めて囁き声で言った。
「良かった、母さん、綺麗だ、綺麗」
 母さんが息を飲む音が聞こえた。その後のことは覚えていない。母さんは疲れて、気絶してしまったのよ、と言っていたけれど、多分、父に殴られて失神したのだと思う。父の顔を見たら分かった。

 学校の授業で作文をした。それを母さんに見せたら、とても嬉しがって笑ってくれた。
「あなたの文章はとても綺麗ね」
 そう言って何度も、何度もその作文を読んだ。この作文は今でも持っている。この日から私は私が書いた様々な文章をこぞって母さんに見せた。母さんはそれを読む度に、綺麗だ、綺麗だと褒めてくれた。
 このことは私が大学を卒業してから代筆屋になることの、大きなきっかけであった。

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