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ふつうの範疇を知る

2022/02/10(木)


昨日まで軽躁かもと騒いでいたのに、今日はうつだった。

うつは分かりやすくていい。


今日はおとなしく、ベッドでじっとしていた。

しようと思っていたこともできなかったし、友達の誘いも断った。

頭と体は重く、かといって気持ちよく休めなかった。



ところで、

連日軽躁だのうつだの言っているが、こんなに数日で軽躁やうつが入れ替わることはない。

(主治医からラピットサイクラーだと言われたことはあるが。)

躁は5日間?うつは2週間?続いてやっと病状と認定されるはずだ。


だからきっとこのうつは、病気の範疇ではないと思う。


今日のうつは、誰にでもある気分が落ち込んでだるい日なのかもしれない。

最近いつもより忙しい日が続いていて、今日は休日だからと疲れがどっと出た、というごくふつうの範疇なのかもしれない。

ただその確信はない。


しかしそのように騒いでしまうのは、ある意味仕方がないかもしれない。

私は誰にでもあるふつうの状態(病気ではない気分の波)が分からないからだ。

自分がふつうに活発なだけだと思っている状態でもそれを病気だと認定され、うつになった途端、活動的だった(楽しかった)日々を反省しなければいけないという生活をもう長い間続けてきたからだ。


だから自分の状態が病気なのではないかと常に疑ってしまう。

確かに気分の波に変動に敏感になることで、病気をコントロールできてきたとも言えるのだが。



でも今日私は、躁だのうつだの騒ぐ自分に嫌気がさした。

そして自分が重大な視点に欠けていることに気付いた。

その視点とは、自分を俯瞰し長いスパンで自分の状況を観察することだ。

気分の波をその日の位置だけではなく、波の周期や振動数、波長や振幅といった視点から観察するという感じだ。


自分の状態に敏感になるのは大切だ。

しかしその状態に一喜一憂し、自分を疑い反省し不安を抱えるというのは、自分のエネルギーの浪費なのではないかと思う。


そう思えるのは、病状が良くなったことで自分の状態に一喜一憂しても結局大丈夫だったということが増えたのも影響しているのかもしれない。


では長いスパンで自分の状況を観察することで、何を得るのか。

それはふつうの状態と病状との境目を感覚でつかめるようになることだ。

たぶん今私は昔の感覚で、自分の状態のほとんどは病状が出ている状態だと思っているのだろう。

きっとその感覚の調整が必要になっているのだ。


ただ長いスパンで自分の状況を観察するのは非常に難しい。

結果が分かるまでに時間がかかるし、とても忍耐力のいることだと思う。

その日の気分に対して、躁だうつだと騒いでいるほうが気持ちが楽かもしれない。


しかし大きな流れを観察することで、一番大切だと思うことがある。

それは観察の結果、自分を信じられるようになるということだ。

もう自分を疑い反省し、不安になるのは嫌なのだ。

今日うつ状態だったとしても、これは疲れが出ただけだよと素直に自分に言いたい。

自分を信じられている状態は、安心をもたらし根本的に自分を支えてくれると思う。


さて今日からまず、その日の出来事と気分のレベル(±5)を記録することからはじめようと思う。

この双極性をコントロールするには、どんな場面でも記録が本当に必要だなと強く思う。



(追記)

昨晩この文章を書いた。

そして今朝起きたとき、今日は昨日よりうつが重いと感じて心配になった。

そういうことを減らしていきたい。



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