電車

 夕暮れの駅のホームは閑散としている。冬と呼ぶにはまだ早い11月の初め。一昨年、大学に入学が決まった後で買ったコートは着ないよりはマシという程度だった。ベンチに座ろうとして太腿の裏がベンチに触れた途端、思いのほか冷たくて思わず「ムッ」という声が出た。大学から40分近くかけて歩いてきたため疲れているというのに、この仕打ちだ。俺は思わず心の中で舌打ちをしたが、はたと思い直した。

 先人たちによれば、若い頃の苦労は買ってでもしろという。もしかしたら初冬のベンチでお尻を冷やすというのも人生の糧になるのではないか。卒論、就活、その後の人生。日々、不安に苛まれている俺は忍耐力を身につけるべきだ。このベンチに腰掛けることがその一環になるなら甘んじて受け入れるべきだろう。

 俺はむしろベンチを自分の体温で温めてやろうと深く腰掛ける。「おぅふ」とよくわからないうめき声が漏れたがなんとか腰を落ち着けた。

 ありがとう先人たち、おかげでポジティブになれた。せっかく切符を買ったのに危うく帰るところだった。ベンチは体を少し左右に動かしただけでもギチギチと鳴り、なんとも頼りなさ気だった。

 次の電車が来るまでに30分近くある。この路線は1時間に1本しか電車が走っていない。地方都市で大学もあるとは言え田舎である。人も車もほとんど通らない。2年間住んでいるが、これまでこの街で活気なんて言葉はどこにも見当たらなかった。もっとも、大学生の経済活動ごときで街一つ潤すなど到底無理な話だろう。

 やがてベンチがすっかり俺の体温で温まった頃、ようやく電車がホームに入ってきた。何人かの老人と入れ替わる形で電車へと乗り込む。車内は適度に暖房が効いていて、高校生やら主婦やらサラリーマンがいた。俺が必死にお尻でベンチを温めている間、この人たちはぬくぬくと居眠りをこいていたのかと思うとやり切れない気持ちになる。だがそんな恨めしい気持ちも電車の柔らかい椅子に座った途端に消え去った。

 幼い頃、今日と同じように寒い日に母親と乗った電車の暖房がとても心地良かった。幼い俺は心地よさのあまり、いつの間にか母親に寄りかかり寝ていた…。

 そんな気恥ずかしいような甘い思い出は俺にはなかった。もしかしたらあるのではないかと記憶を入念に探すがやはりない。そもそも、幼い頃に電車に乗ったことがあっただろうか。でももしそういった記憶があったら、今頃センチメンタルになって涙をホロリと一粒くらい落としていたかもしれない。

 ガタンガタンと静かに規則的に揺れる電車はゆりかごのようだ。俺は目を瞑って一眠りすることにした。行き先を決めて電車に乗ったわけではなかいから乗り過ごすような心配もない。目が覚めた駅で降りて適当に時間を潰そう。


 

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