休職中の話1 存在価値の奴隷だった
存在価値の奴隷から解放されることが、幸せになることへの第一歩ではないかと、会社を休んでいて思った話。
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すべての始まりは、転校先の小学校で馴染めずいじめられていたとき、「そのままの自分=無価値で嫌われるもの」という考えが、私のなかに染みついたことだった。
当時の私にとっては、新たな学校での居場所の確保は死活問題で。あれこれ八方美人して、"周りにとっての自分の存在価値"を高めようと必死になった。
もともと言い方のキツい子供だった私だが、ことば遣いを柔らかくし、周囲の顔色を伺い、話題とノリを合わせ、皆のやりたがらない係や面倒な委員会ごとを率先して行い、常に成績トップを保ち、先生と同級生から信頼のような何かを勝ち得て、私は居場所をつくった。
自分に価値がある限りは、この場にいても許されると思った。
しかし今になってみれば、そんな"存在価値"とか意識しているのは自分だけで、周りはそんなの気にしていなかっただろうと思う。
当時の田舎の小学校、1学年30人というあまりに狭いコミュニティ。
幼馴染みばかりで構成されたクラスに、いきなり知らんよそ者が知らんところからやってきたら、異物として恐る恐る見るのがヒトとして当然の反応だ。
私という個人が拒絶されたのではなく、ただ「よそ者」として扱われただけだったのだから、そこまで傷つく必要も、自分を変える必要もなかった。今思えば、だけれど。
しかし、何度も言うが当時の私にとってはほとんどトラウマのようなもので、「ありのままの自分で飛び込んだ結果、味方もできず、受け入れてもらえなかった」という苦い印象だけが焼きついた。
そして悲しいことに、「周りにとって価値のある自分をつくることで受け入れてもらえた」というむなしい成功体験が、静かに私の中で沈殿していった。
それから10年以上経った今でも、「そのままの自分=嫌われる」という意識は、依然としてついて回ってくる。
役に立たなければその場にはいさせてもらえない、という奴隷思考。
そして、価値ある自分をつくれば受け入れてもらえる、というむなしい成功体験。
この2つの呪いは、えげつなかった。
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中学、高校、大学、就職と、コミュニティは変わっても、私は優等生でいい子ちゃんな奴隷だった。
家族にも友達にも恋人にも嫌われたくなかった。いらないと言われたくなかった。
周りに尽くして、私は役に立っているからその場にいてもいいんだと自分に言い聞かせていた。
自分自身への愛や自信や、いわゆる肯定感は、育たなかった。育つはずもなかった。
受け入れられるための存在価値を身にまとえばまとうほど、ドーナツホールのように自分の無力さや無価値さがぽっかりと浮き彫りになった。
独りよがりだった。
自分の居場所を確保するために、周りに尽くしていた。本当に周りのためになっていたかどうかはわからなかったし、考えてもいなかった。
自分勝手に尽くし、応え続けて。
周りからの要求に応えきれなくなった瞬間、自分にはここにいる価値は無いのだと勝手に絶望し、拒絶を恐れて、その前に逃げてきた。
ものすごくわがままな人生だと思う。
これだけ勝手で独りよがりな生き方をしておいて、生きづらいと嘆いている自分がいる。
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小学生のときと何ら変わらぬやりかたで、新卒として入った職場に馴染もうとした結果、体と心の制御を失くしてしまった。
期待に応えようと役割意識を過剰に持ちすぎて、実力も経験もないのに無理をして背伸びして、「価値ある自分」という幻想を演じきれなくなった途端に、ぽっきり折れた。
会社に行けなくなって、なし崩し的に休職期間へ入った。
人生ではじめて何もしなくていい時間と場所をもらって、やっと私は自分の愚かさと幼稚さに気づき、ほんの少しの愛しさすら覚え始めた。
首を絞めている自分の手を、徐々にゆるめる努力をしなくては、と思う。
自分のためだけでなく、周りのために。
幸いなことに、周囲は優しかった。
何もしてない私を気づかい、受け入れてくれる人がたくさんいた。
残酷なぐらいに、周囲は優しかった。
何もしなくていいよと言われて、はじめて気づいた。
周りは私に何か特別な価値を期待しているわけではなく、等身大の無価値な私をとっくに受け入れてくれていた。
価値の奴隷になっていたのは、私だけだった。
これ以上大切な人たちから逃げなくてすむように、私は「無価値な私」を許す努力をしようと思う。
存在価値という見えない鎖を言い訳に、自由を選んでこなかった私は、紛れもない奴隷だった。
いつだってその鎖は外せるはずだったのに。
何も頑張れていなくても、何の価値も生み出せてないと思っていても。
そんな無価値な自分のまま、いていいのだと言ってくれる人がいる。場所がある。
自分の価値を意識する必要のない、深く息を吸って吐ける場所があれば、人は自然と価値の鎖を抜け出せる。
奴隷ではなく本来のその人として、自由に生きられる。
それが幸せになるということじゃないかと、今は思っている。
鎖を外した本来の足で歩む世界は、きっといくらか軽やかだろう。
たとえ上から現実という荷物を乗っけられようと、横から心ない石を投げられようと。
二度と鎖に繋がれないよう、私はこれから無価値なひとりの人間として、等身大の自由を歩みたい。
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