休職中の話3 逃げる。そして挑む。


学生時代のインターンからずっとお世話になっていて、私が心の底から尊敬し信頼している恩師(と勝手に心の中でお呼びしている)とごはんに行った時の話。

休職中の私から急に久々にお会いできないでしょうかとメッセを送られ、お忙しい中さぞ面倒だったろうと思うのだけれど、即レスで候補日を出してくださって、本当にありがたかった。

新橋の、陽気な店主さんがいらっしゃる和食屋さん。
恩師は10年以上そこに通っているようで、店主さんとすごく仲がいいみたいだった。

席についてしばらく他愛のない話をしていたが、私の表情や声音で色々と伝わってしまったのか、恩師はすぐに席をカウンターから個室へ移してくれた。

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この日に恩師が仰っていたこと、本当はすべて録音して文字起こしして残しておきたいぐらいだったのだけど、まさか居酒屋で盗聴するわけにもいかず。

この日は恥ずかしながら私の精神状態がいっぱいいっぱいで、泣いてしまった場面もあるし、その時の状況を詳細までは覚えていられなかった。だからとても勿体ないのだけど、特に心に深く響いた言葉をただ並べていこうと思う。

私はこの日を境に、自分がもともとやりたかった編集の道へ進もうと覚悟がついた。

だから、これはもうほとんど私の備忘録みたいなものなので、きっと文脈上つたわらないこともたくさんあると思う。

新卒1年目で、広告代理店で営業をしていて、心と体を病んで休職中という私の状況を含んでいるということだけ、文脈を理解するという意味で、置いておく。


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【キャリア、休職、転職に関して】
※()内は私の発言や前後の文脈

(この会社で、新卒で役職者になって、このまま続けて昇格していく、そういう会社の中での自分のキャリアを思い描いたときに、その自分が好きになれないと思った。そうなりたくないと思った。)

それは、「自分の出るレースではないな」と感じたということ。
それがわかったということは、その不本意なレースに費やしていたかもしれないこれからの3年(もしかしたら7年かも)を救ったということ。

逃げることは何も悪くない。
「逃」とは、「兆しを感じて道を変える」こと。悪いことなど一つもない。
むしろ自分は最近逃げてないから、他に道がないか考え直した方がいいかも、ぐらいまで思ってる。

逃げる、そして、挑む。
これをセットにすることを自分のルールにしている。

挑むとは、兆しを手に掴むこと。
といっても、そこで成功しなければいけないわけではない。実際にやってみて、違うなと思ったところに対して微修正を重ねていくことが大事。

人生に夢中になるためには、逆説的だけれども、夢中になれないものを排除するしかないから。


(会社を辞めようか迷っていたとき、この会社で本当にやりきったのか?と言われて、とても揺らいで、少し傷ついた。)

「やりきったかどうか」を聞いてくる奴がいるけれども、気にしなくていい。
「やりきった」論は、「何を」やりきったのかが大事。
そもそも会社の中でやれることは無限にあるのだから、会社で完璧にすべてを「やりきる」のは不可能。

広告営業をやりきったかどうかはわからない。
会社での評価や昇進をやりきったわけでもない。
でも、「自分がこのレースに出るかどうか」を判断することに関しては、あなたはやりきったと言える。それでいい。


【編集という仕事に関して】

(編集は)神のような仕事。言葉には限界があって、必ず言葉のうえには思考がある。思考は常にアップデートされていて、それをあとから言葉が必死に追いかけていっている。その間の距離をなるべく近づけようとしている仕事だから、神の仕事。本当にすごい仕事だと思う。

(私の話をきいていて)あなたは会社のことや営業のこと、周りへ影響することに関しては慎重に言葉を選んでいたが、編集というトピックスに関してだけは、断定形で話していた。自分の中で確固としたものがある証拠。その道に進めばいい。

(「これがやりたい!」という直感をうまく言語化できず、転職の理由に納得してもらえないのではないか。)
それが言葉の限界だと思う。
言葉で言い表せなくても、心が動いてしまっているのだからどうしようもない。周囲の人全員が納得することなんてないのだから、気にしなくていい。

周りにどう思われるかをつい考えてしまうけれども、意図的に無視するようにしてる。その人たちのために生きているわけではないからね。


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お店を出て、恩師は私を最寄り駅まで車で送ってくださった。
思えば上京してきてもうすぐ1年、夜の首都高をゆっくりとドライブするなんてことはなかった。

日付が変わるころに退勤して、コンビニでいつも同じサラダを買って、街頭だけの神田川沿いを、泣きながら歩いて帰っていた。

静かな車内で、ふと恩師が問いかけた。

「いま死んだとしたらどう?」

少し考えて、いま死ぬのはいやですねえと私が答えると、「だとしたら、やり残してることがあるんだろうね」と返ってきた。
なるほど、と思った。今死んだらどう?というのは、シンプルですごくわかりやすい。私は今、死にたくない。やりたいことがある。やれてないことがある。

恩師は、死ぬことが以前よりは嫌ではなくなった、と言う。
死を覚悟する経験があり、それから、今を生き、今を愛するようになったと。

人はいずれ死ぬ。そして「人間」として生きていられる時間は、寿命のなかのほんの一部だ。
だからこそ今、この瞬間、人らしく生きていく。
そんな意識が、もっと必要なのだと思う。

最近読んだ本にも、そんなことが書いてあったような気がする。

心地よい車の振動に、不思議と心も落ち着いてきていた。

恩師の言葉は変わらず優しく冷静で、ロジカルだけど暖かかった。

「元気になったならよかった。でもそれは沈んじゃいけないってことじゃないから。自分の子供を見ていて思うけど、感情なんて5秒で切り替わる。それが人間として当たり前のことだと思うから」

首都高をゆったり進む車内で、何時になっても明るい東京のビル街がフロントガラスにおとなしく収まっているのをぼんやり眺めながら、久しぶりに深呼吸した。

いま死んだとしたらどう?という問いは、毎日持っていようと思った。




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