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与える人、とは。


「与える人になる」という目標を、今年の1月に立てた。

あれから、11カ月が過ぎた。

結論から言うと、今の私はむしろ「もらう人」になった。

フリーライターになってお仕事をもらうようになり、
様々な取材現場に同行して経験をもらうようになり、
出会った方々にまた多くのお声掛けをもらうようになり。

私の等身大よりはるかに多くの価値をもらうようになった。

恐縮の一言である。

果たして私の今のアウトプットがその価値と本当に見合っているのか、不安で夜も眠れない。
こともない。
むしろ疲れすぎて泥のように寝ている。

当初の「与える人になる」という目標は、もっと噛み砕いて言えば「見返りを求めずに、誰かに何かを与える」という、……なんか噛んで砕くほどでもないふわっとしたものだった。

たぶん、みたいなものを想像してたんだろう。

ここで愛とは何たるかというテーマを持ち出すほど私は成熟してないけれども、要は、本当に心の底から、確固たる意志で、あるいは無意識で、相手のためになるようなことをしたかったのだろうと思う。

私は、昔から見返りを求めすぎるタイプなのだ。

勝手に他人に期待し、恩着せがましく世話を焼き、同等の見返りがいつか来ると心のどこかで待っている。そんな人間。

世話を焼いた相手から何も返ってこないまま関係が終了し、なぜか肩透かしを食らう。そんなことを何度も繰り返した。

それを反省しての、今回の目標だった。

見返りを求めず、誰かのために心から自分の一部を差し出す人間になりたいと。

見返りばかり考えて、計算尽くしで、そんな自己中心的な行動ばかりしているから痛い目を見るのだと。

何も期待せず、人に愛や勇気や情熱をただ与える人になれば、結果的に自分の人生は満たされると、割と本気でそう思っていた。

しかし、今こうして「もらう人」になって初めて分かった。

「与える人」には、「与える」という意識など無いのだと。

「与える人」に見える人は、その人の魅力が器から溢れ出て、ただ周囲を満たしているだけなのだと。

これ、伝わるだろうか。

つまり、自分の一部を削って誰かに与えていてはだめなのだ。
アンパンマンみたいに顔の一部を取って、泣いているカバオくんにあげていちゃだめなのだ。

いや、新しい顔をジャムおじさんから常に供給してもらえるアンパンマンはそれでやっていけるけれども、私が自分を削った場合、何かでそのぶんを埋めなければならない。

だからどうしても見返りが欲しくなるのだ。
自分を削って与えている限り。

それじゃだめなのだ。

本当に誰かに影響を与えたいのなら、自己犠牲の精神は捨てたほうがいい。

本当に何かを「与える人」というのは、まずその人自身が充分に満たされている。
あまりにも満たされ過ぎた結果、その人の全身からあふれ出てくる「魅力のオーラ」みたいなものが、間接的に周囲の人を感化するのだ。

いや、あんまり胡散臭い例えはやめよう。

要するに、その人自身には「誰かに影響を与えよう」「与えよう」とかいう意識が無い。
ひたすらに自分のことを考え、ひたすらに自分のやりたいことに没頭し、ひたすらに結果を出している。

コップに水をずっと注いでいたら、いずれあふれてくる。
そのあふれた水を、周囲が勝手に「受け取り」、勝手に「与えられ」ている(と脳内変換している)に過ぎない。

……と、いうことに、私はやっと気づいた。
22年生きてきて、やっとだ。

よく考えれば当たり前のことだ。

自分が満たされていないのに、誰かを満たすことなどできるわけがない。

当然だ。
サルでもワンチャン分かるレベルだ。

私がそんな当たり前のことにやっと気づけたのは、私自身がやっと自分のコップを満たしはじめたからだ。

自分の勉強したいことを現場で学び、自分なりに表現し、反応をもらい、反省し、将来やりたいことに微々ながらも近づいている。
アホほど疲れるけれども、それ以上に楽しい。

やればやるほど、やりたいこと、知りたいことが増える。

自分としては毎日てんてこまいで、手いっぱいで、必死こいて1日をこなしているつもりなのだが、周りからすればそんな様子が「充実している」「輝いている」ように見えるらしい。

まったく自慢ではないしリア充アピールなど死んでもしたくないが、周囲の人の言葉を借りればそうなるのだ。

そして私自身、周りを見ていても思う。

また当たり前の話になるが、見ていて「充実してるなあ」「かっこいいなあ」と思う人は、たいてい何かを一生懸命頑張っている。

高校の教室の窓から、グラウンドで練習するサッカー部のキャプテンをつい見てしまうのと同じだ。
たぶん。
したことないけど。

「一生懸命な人」を見ると、やる気や勇気を勝手に「与えられる」のだ。

結果、その人は「与える人」なのだと思ってしまう。

実際はその人に「与えよう」なんて意識も余裕も全然ないのにね。

私だってそうだ。
周囲にいい影響を及ぼそうなんて毛ほども考えてないし、そもそもそんな余裕なんて全然ない。
自分のことで手も頭もいっぱいだ。
与えるどころかもらうばかりしている。

それでも、周囲からの評価は逆なのだ。
ありがたいことに、最近「すごいね」「羨ましい」「頑張ろうと思える」みたいなことを言ってくれる人が増えた。

私のコップからあふれた本当にちょびっとの水が、ちょっとずつちょっとずつ、染みていっている、のだろうか。
そうだとしたら、嬉しい。

いや、あふれるとまではいってなくて、ギリギリの表面張力でコップの上にプルプル震えてるぐらいのレベルかもしれないが。え、それって逆に見てて危なっかしくない?

まあとにかく、本人の意識と世間の評価が逆であるということは、往々にしてあるのかもしれない。
実際には「もらっている人」なのに、世間では「与える人」だと言われるような。

思えば今をときめくインフルエンサーだって、自分のやりたいことを最優先している。
でもそんな彼らの姿勢が、結果的に世界で大きな流れをつくる。

まあ、そういうことなのだろう。

いや、わかんないけど。

今の私が気づけたのは、ここまでだ。

寝よう。

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