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ネコヤナギに弔いを

猫はーー
動物はーー

死をどうとらえているのだろう。

殺人的な暑さの夏の日。夕暮れ。痩せ細ったメスの三毛猫が、向かいの家の玄関に出された餌をカリカリと食べている。

「クロミ」
名前を呼んだ。こちらに一瞥をくれて、またカリ、カリ、と。

この五日で、ずいぶんと痩せてしまった、そのちいさな体に胸が疼く。

隣で何も知らず待ちぼうけを食らった無垢な犬が、辛抱たまらず吠えはじめた。そう、散歩に行こうとしていたんだった。

犬をもう一度待たせて、家へ戻る。ボックスから犬の餌をすくい、あの子の元へ。

クロミは、手のひらの餌に一瞥をくれて、また、カリ、カリと元あった方を規則的に噛み砕く。

その細い音が、セミの大合唱にかき消されようとしていた。

「おまたせ」
真っ白で無垢な犬に言葉を落とし、木々のおおう坂道を降りる。ジリつく暑さ。影が、現実から逃れられる唯一の場所のように感じた。

たった数ヶ月前のあの子は、ミャだとかニャーだとかアだとか、人に媚びる言葉を使いこなしていたのに。餌を持った手を叩き、落ちたものを咥え走るほど強欲だったのに。

瞬きのたびに、あの日の光景が浮かび、楔が心に、脳に打ち込まれる。

ーーー

山で暮らすあの子を、このあたりの人は野良猫と言わず、山猫と言っている。しなやかで気高い、薄倖の山猫。

クロミは数年前から縁側に姿を見せていた。時に膝に乗り、時に引っかき傷を負わせ。

そして今年の冬の終わりごろ、すこし膨らんだお腹で数ヶ月ぶりにわたしたちの前に姿をあらわした。

「あれ?赤ちゃんできたの?」
クロミはこちらを見て目を細め、ミャだとかアだとか言う。

うららかな春の日差し。四匹の子猫が生まれた。気高い山猫の子ども。子猫を背後にクロミは、ミャでもアでもなく、シャーと牙を見せた。

サビ、サバトラ、キジトラ、三毛の四匹。好奇心が強く臆病。母の言うことをよく聞く四匹だった。

まだちいさなうちに、二匹が死んだ。「ここ何日か一匹見ないですね」と、向かいの住人と話していたころ。ひとつ、またひとつと命が空へ行った。

クロミの寝床は、命が旅立つたび変わった。はじめはトタンの下。つぎは、ミカン箱の裏。そして、縁側へ。

数週間経って、ミカン箱の裏を覗くと、もう何もかもすっかりきれいになった、ちいさなちいさな頭蓋骨があった。

生き残ったサバトラとサビが縁側で戯れて遊ぶたび、室内で暮らす無垢な犬はけたたましく吠えた。

「子どもちゃんやからね」「クロミががんばって育てとんよ」と宥めるも、犬はお構いなしだった。

ーーー

五日前。梅雨明けが発表された、あの日。

サバトラもお空に行った。わたしたちの目と手と、涙の中で。苦しみながら。

クロミは離れたところから、瞳孔を細めた目をカッと見開き、こちらを見つめていた。

向かいの住人が「ごめん、ごめん」と声をあげて泣いている。もっとも生々しい死だった。もっとも生々しい生だった。

一、二分で動かなくなったサバトラの目を閉じ、タオルでくるんだ。

「クロミ」
ミャともアとも鳴かない。遺体には近づこうとせず、血の匂いを嗅いでいる。

「ごめんね」
クロミには何もかも見透かされているようだ。なのにクロミの気持ちは、何も見抜けない。

動転か、怒りか、悲しさか、謝罪を受け取るつもりはないのか。それとも全てか。

あの子の亡骸を畑に埋め、その上にネコヤナギの苗を植えた。春に切り花で買い、根出しをしていたもの。花言葉は自由。

こんな陳腐で自己満足な人間の弔いを、クロミはどう見ただろう。クロミの気持ちは何も見抜けない。

そして、クロミとサビはここを去った。出産から数ヶ月アジトにしていたこの場所を。

丸一日以上過ぎて、ふらり、クロミだけが姿を見せた。贖罪と愛情で置かれた、向かいの家の餌を食べ、そしてまた姿をくらました。

だいたい三十時間に一度、クロミは戻ってくる。しだいに痩せていく体で、ちいさな音を立てほんのすこし餌をくだき、去る。

「サビは?元気にしてるの?あなたたちはいまどこにいるの?」
後悔がその言葉を押しとどめる。

クロミはあれからミャとかアとか鳴かなくなった。

ーーー

クロミが居を移したのは、死を忘れるためなのか。それとも、覚えていたいからなのか。ぐるぐる、ぐるぐると答えが出るはずのないことを考える。

クロミにはすべて見透かされているのに、クロミの気持ちはわからない。

どう死を受け入れたの?これからどうやって生きていくの?痩せ細ったクロミ。

サビをどこかに待たせているのか。それが、猫にとっての死と生なのか。単純すぎる複雑さに頭がぐらりとした。

瞬きのたびに、あの光景が脳裏に浮かぶ。サバトラのひとつひとつの細胞が、セミの大合唱のごとく喧々と騒ぎたて、なにひとつ聞き取れやしない。

生と死を動物のように享受することが、命の正解だと思ってきた。あるかないか、二者択一でしかない生と死を、動物は、猫は、キミはどう受け止めているの。

後悔と懺悔と悲しさと傷つき。お前が傷つくのかという鎖。何本も何本も厳重に巻き、しまいにぐにゃりと体が芯なく曲がった。

最高気温三十四度の夏の夕暮れ。セミの声が現実に引きもどす。

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