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透明度50%

「書いたものには、その人がこの世界と他者をどれだけ信じているかが如実に現れる」
今日、そう言ったのは他でもないわたし。どう読み直しても主語の大きい言葉だけど、ほんとうを言うと、誰かの文章を読んでそんなことを感じるなんてほとんどない。だから、今日言ったこの言葉の「その人」とは、実際にはイコール、この世界と他者を信じたいわたしだ。

そうでない文章とは、つまり世界と他者を信じていない文章とは、説明くさく、遊びがなくて、わたしとあなたの境が明確なもの。「わたしはこう思う!あなたがどう思うかなんて興味ない」とか「どう思われたっていいの!わたしはわたしなんだから」とか「あなたはわからないだろうから教えてあげるね」なんて、怨念と自己愛と卑屈が文字の端々から浮き出てくるような文。あぁ、おぞましい。そう感じてしまうのは、かく言うわたし自身が書いた文を読むときで、振り返ると答え合わせのようにあのときのわたしが「わたしはこう思う!あなた(いまのわたし)がどう思うかなんて興味ない」と、ハリーポッターの閲覧禁止の棚に置かれていた本のように、金切り声で叫びかかってくる。ハリーさながら力いっぱい本を閉じて棚に戻し、なるべくしてそうなったあのころの自分を肯定しつつ「世界よ、他者よ、ごめんよお」とつい懺悔。

では逆に、世界と他者を信じていること(イコール、自分を信じていることでもある)とはどんな状態で、その文はどんなものなのだろう。最近、内的世界と外的世界の間で言葉というボールを転がし遊ぶことについて考えている。家族にとってのリビング、町にとっての広場のような場所で。考えてみれば、そもそもそこに出てくること自体が、そしてそこでリラックスして自分の時間を過ごすことが、世界と他者を信じていることそのものなのかもしれないと、ふと思う。広場でおなじもので遊んだり、別々のことをしたり。どう過ごしたって、とにかくおなじ時間と場所を共有していることに変わりはない。その空間で、わたしとあなたの境は、ふとしたときに交わり、離れ、そうしてまた交わる。そこでは、わたしであり、あなたであり、わたしでもあなたでもない時間が流れている。そんな時をともに過ごせるならば。透明度50%に薄めて会うから、おなじく透明度50%のあなたとそこで重なり、その瞬間だけの形と色になるような、そんな文を。

BGM/夏夜の虫の鳴き声

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