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それしか

どれだけ正確な情報も言葉も、受け手が振り回せば立派な凶器になると、知らず知らずのうちに体得していたみたい。ただ、だれかを疑い非難するきっかけになる文章を書かずにいたい。

3月に修了したライター講座で、言葉を扱うものはどれだけ責任を持っていられるか、搾取的・暴力的でない実践を積めるのかと、そんな話が出た(ような気がする)。薄氷よりも割れやすい記憶のため、いつもどおり自信はない。

ぼんやり、ぼんやりとずっとそのことが気になって、ときどき思い出しては考えて、また仕舞ってと。大きなセーターを編む時みたいにゆっくりと考えていた。古い記憶。高校生のとき、父が亡くなった。

事故の報が全国ニュースのトップで流れ、早朝、記者が家を訪ねてきた。新聞も雑誌も、市民ライター(いまほどネットが盛んではなかったけれど)の記事も、ネット掲示板も、情報と言葉がたくさん溢れ、溺れるように読み漁った。そのとき目に触れたものはとにかく全部。そして、それなりに傷ついた。疑いも非難もそれなりにあったから。

疑いも非難も生まない文章を。できることならば、だれか(やなにか)を信じ尊ぶきっかけになる文章を書きたい。さて、どうすれば。思い巡らせながら思考の中をぽつりぽつりと歩く。坂も階段も獣道も防風林も、歩く。そうして見えてきたひとつの光。それはもはや、祈りでしかないのだろうと縋った。絶望であり希望であり、不可能であり可能である光に。どうかこの言葉が回り回ってだれかの手に渡り、別のだれかを傷つけませんようにと、祈りをこめる。お清めをして、おまじないをかけて、この世に放つ。それしかできないんだけど。ほんとに、それしかできないんだ。

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