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立ち位置と居場所

最近よくnoteに言語化することを心がけているのだが正直言って元来私はあまり言語化は得意では無い。言葉にすると断定して伝わりすぎてしまう気がして上手く伝えられる気がしない。だから余白のある写真という行為が好きなのかもしれない。それでもなお言語化をしようとするのはあることがきっかけである。

私はオンラインコミュニティcomodo(旧Dope Zine)に所属している。加入当時はまだ法人化しておらず今とはまた違ったコンテンツがあった。その中にwebzineというものがあった。毎月コミュニティ内の有志によりセレクト、編集まで行うweb写真集だ。毎月テーマが決まっていて、写真を始めたばかりの私はその中に自分の写真が使われることが嬉しくてたまらなかった。その中にコラムそして「写真とコトノハ」という短編のコンテンツもあった。webzineのテーマは決まっていてもこの各コンテンツには自由度も高かった。自分だったら何を書くだろうなんて考えながら毎月楽しみに見ていた。ある月にそれを担当することになった。その時に書いたのがこちら


私があなたを写すこと


2020年から続くこの社会情勢の中、人を撮ることを主としてきた私は写真を撮るという行為を続けながらも被写体を変化させつつ写真というものを考え追ってきた。人を撮る中で一貫して考えてきたことは「私があなたを写す」ということの意味。この一変した世界の中でその考えにも少なからず変化が生まれた。

スマホでも気軽に綺麗な写真が撮れる時代、そしてコロナで目まぐるしく世界が変わる中、人を撮る機会というものも減ってきた。その中で私はいつか自由に人を撮れる時が来る時のためにその他の力をつけることを考えた。光と影の使い方、ストリートスナップにおける瞬発力的な良い瞬間の残し方、日常スナップにおける情緒、風景写真における画角や色の美しさや細部の描写の繊細さ、シティアーキテクチャにおける印象の作り方、SNSにおいての写真の価値、写真というものの意味。私がSNSにアップし続けてきたもの、アップせずとも撮り溜めてきたものは断片的には何の価値も無いかもしれない。ただその中で自分が積み上げてきたもの。その先にあるのは「私があなたを写す」ということ。その為に向き合う相手が山であろうが滝であろうが、建物であろうが「私があなたを写す」ということを大切にしていきたい。世界がどうあろうとも「私があなたを写す」ことを続けていきたい。
Dope Zine Lab Webzine内「写真とコトノハ」より

今となーんも言ってること変わってない気もする…
が、今はそれで良いかなとも思っている。崇高な思想も至高な考えもまだまだ私には無いがファインダーを覗いた先にいる対象への思いや姿勢はこの時から変わってない。(まだ1年半とかしか経ってない気もするがwそもそも写真始めて2年半だから許して)

ただ一つ言えるのはその思いや姿勢を言語化する機会をくれて写真について向き合って見つめなおすきっかけをくれたのはこれ。ってこと。最近展示のステートメントや展示後に書いたnoteとか自分が言語化したものを見返してたら立ち位置とか居場所を再確認したくて読み直した。

webzine担当してくれてたKengChiYang、ありがとう!
そんなKengChiYangがcomodoの説明をしているnoteはこちら

展示後に私の今の写真観を記した記事がこちら

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