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自分のため、家族のため、地域のため

青森県佐井村でとあるご自宅に立ち寄った。今回の旅で道案内をしてくれたNさんの知り合いの家だそうだ。

Nさんは管理栄養士として、青森県内の保健所に勤務をしていた。公務員なので、人事異動がある。ある時期をこの下北半島で過ごしていた。

「下北半島は果物が育たないのよ」といって、今回の旅では津軽のりんごをたくさん袋に詰めて、下北半島で一緒に仕事をしていた人たちの家により届けていた。

その一人が佐井村に住むMさんだ。

「Mさんはね、会津の血筋だから、家の中にも会津のものがあるのよ」という。「ちょっと一緒に寄って行かない」とNさん。

他人の家に上がるのは緊張するが、りんごが入った袋は大変重いこともあり、私が車から降ろし、持っていくことにする。

Mさんの家のベルを鳴らすが、誰も出てこない。でも中から人の声はする。「ごめんください」といって戸を開けると、家の中からお経を唱える僧侶の声が聞こえた。

「あ、今日法事なのかも」とNさんと顔を見合わせ、立ち去ろうとしたところ、中からエプロン姿の女性が出てきた。

「Nですが、お母さんいますか?」と聞いたら、「少々お待ちくださいね」と奥に戻っていった。

するとすぐに「いやいや、よく来てくれた」といいながら、一人のおばあさんが奥からでてきた。

入口のすぐそばの仏間にあげてもらう。大きな仏壇の隣に、CDプレイヤーが置かれ、そこからお経が流れていた。そして、仏壇の隣に、大きく会津藩の旗が掲げられている。その旗の下に、2本の日本刀が台の上に置かれていた。

日本の幕末から明治初頭まで会津藩の軍勢が掲げていた軍旗の紋
向井, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

最近、ご主人がなくなったらしい。

Mさんは、Nさんに「本当に涙が止まらなくて、ずっと泣いている」と最近のお話をされていた。電話で聞いていたのはNさんは驚くことなく、うなずきながら話を聞いていた。

しばらくして、隣で話を聞いていた私に声をかけてもらう。私は「会津から来られたと聞いていたのですが、青森の下北半島は自然環境も大変な中、過酷な状況だったのでは」と聞いた。

会津から下北へ移り住み、荒涼とした土地を開墾するのはかなりの苦労があったと義両親から聞かされたそうだ。それでも、手を休めることなく、開墾を続ける。

Mさん自身は、会津から下北に来た人ではなく、結婚して嫁いだ先の家が会津の人だった。

嫁いでしばらくすると、日本全国で「食生活改善員」が募集される。

その地域で食で健康を守るため、食の大切さや調理方法を伝える役割を担う。そのためには、県庁所在地がある青森市での研修や、地元で外回りをしながら食と健康を伝える役割を担う必要がある。

結婚をして、家に入らなければいけないと思ったMさんに、会津藩の血を受け継ぐ義父が行ったそうだ。

「家にいる必要はない。勉強しなさい」

と。

それでも引け目を感じ、食生活改善員になることを断ったほうがよいと思うと伝えたときに、義父は言った、

学ぶことは、自分のためになるだけではない。家族のため、そして地域全体のためになる。

その言葉を受けてMさんは食生活改善員としてさまざまな研修を受け、仲間を増やし、佐井村の食で命を守る人の役割を担うようになった。

「あれからだいぶ経つけど、いまでも寝る前にその時の資料を読むようにしている」「義父から、女子でも外に出て学ぶことが大切だといわれた」

そんな話をうかがった。

県庁所在地の青森市、津軽藩のお膝元の弘前市、新幹線が止まる産業の要の八戸市が有名ではあるが、人に恵まれているのは下北半島なのではないか。

「佐井村は、色々な人を受け入れているから、最初から他者を断りはしない」という柔軟さと、「学ぶことで、個人、家族、そして地域全体が豊かになる」という将来に対する投資の思想の根がはっている。

「お嫁に来てびっくりした」というMさん。

それも、Mさんが、地域に入り、人々の健康を支える役割を担えると確信したので義父もそれを許したのだろう。

だいぶ時間がたった。

Mさんにお礼を伝えつつ、家を後にする。

「学ぶことで、個人、家族、そして地域全体が豊かになる」

そのためには、時間も必要だ。でもそれを信じて、学びに出す、会津の人たちの政の在り方に触れた気がした。

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