見出し画像

【鎌倉殿通信・第11回】「鎌倉ノ本体ノ武士」 梶原景時

13人の中に、鎌倉を本拠地とした武士がいることをご存じですか。その人物こそ、鎌倉の地名梶原かじわらを名字とする梶原景時かげときです。景時は桓武平氏かんむへいしの一流・鎌倉党かまくらとうを出自とする武士で、鎌倉の梶原を本拠としました。深沢地区には、鎌倉党の祖・鎌倉権五郎景正ごんごろうかげまさを祭る御霊神社や、景時の墓と伝わる五輪塔ごりんとうがあり、梶原氏ゆかりの地であることを今に伝えています。

源頼朝みなもとのよりともが挙兵すると、同じ鎌倉党で平家方の大庭景親おおばかげちか軍につきますが、石橋山の合戦で頼朝の危急を救い、以後頼朝の信頼を得て活躍します。治承じしょう寿永じゅえいの乱の際には、源義経らと共に上洛じょうらくし、木曽義仲や平家一門を追討しました。また、寿永二年(1183)、頼朝の密命により、双六すごろくに興じている上総広常かずさひろつねを殺害したと『愚管抄ぐかんしょう』(慈円じえん著)に書かれています。さらに建久けんきゅう3年(1192)には、和田義盛に代わって侍所さむらいどころの長官となりました。

しかし、御家人統制の要である侍所の職務もあって、有力御家人の反感も強く、頼朝の死後にまず粛清しゅくせいされたのが景時でした。正治しょうじ元年(1199)、千葉や三浦など幕府の宿老が景時を弾劾し、訴え出る事件が発生しました。66人もの御家人がこれに賛同し、景時は失脚して鎌倉を追放されました。翌年、再起をかけて上洛を図りますが、駿河国するがのくに(現在の静岡県東部および中部)で討ち死にします。

頼朝の密命により広常を殺害したことや、義経を失脚させたこと、また「景時の讒言ざんげんによって命を落とし、職を失う者が数多くいた」という三浦義村よしむらの評もあって、良いイメージのない人ですが、鎌倉時代初期の僧・慈円は「鎌倉ノ本体ノ武士」(本体とは、真の姿、真髄)として、景時を高く評価しています。

また、京都の貴族とのつながりもあり、徳大寺家とくだいじけに仕えていた経験から、文化的な素養も高かったと考えられます。歌道や音曲に通じており、『吾妻鏡』には「文筆に携わらずといえども言語を巧みにするの士なり」と記されています。

【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤泉】(広報かまくら令和4年7月1日号)