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【鎌倉殿通信・第6回】北条氏の本拠地ってどんなところ?

北条義時たちが暮らした北条の地はどんな場所だったのでしょうか?第6回は、北条氏の本拠地である伊豆国田方郡いずのくにたがたぐん北条(現・静岡県伊豆の国市)に想いを馳せたいと思います。

北条氏の暮らした館は、現在、史跡北条氏邸跡ほうじょうしていあと円成寺跡えんじょうじあと)として、国の史跡に指定されています。これは、平成四~五年にかけて行われた発掘調査で、平安末から鎌倉前期にかけての大量の出土遺物と建物跡がみつかり、この場所が北条氏邸跡であると確認されたためです。この成果によって、時政・義時・泰時三代の暮らしの様子を知ることができます。

そもそも伊豆北条というのは、伊豆半島の付け根辺りにあり、山の多い半島の中でも農業生産力の高い平野部(田方平野)に位置します。田方平野の中央に広がる韮山にらやま地域には、守山もりやまと呼ばれる独立丘があり、北条氏はその山裾に館を構えていました。下田街道と狩野川かのがわに挟まれた北条氏邸は、北条氏が水陸交通の要衝ようしょうを押さえていたことを示します。加えて、国衙こくが(役所)のある三島に近接し、坂東ばんどう諸国の中で最も京都に近く、中央の情報を得るにも便利な場所に居住していたといえるでしょう。

北条氏邸跡の調査では、大量のかわらけや常滑焼とこなめやきなどの国産陶器、青磁せいじ白磁はくじなどの中国産の磁器とともに、鎌倉前期の建物跡や井戸、区画溝などが見つかりました。中でもとりわけ目を引くのは、大量の中国産の磁器です。日宋にっそう貿易によってもたらされた輸入品は、下田街道や狩野川を通じて北条氏邸にも運び込まれたのでしょう。北条氏邸跡では、破片数にして1661点もの磁器が見つかっており、北条氏の権威や財力をうかがうことができます。

出土量のピークは、12世紀の終わりごろから13世紀の初めごろであることが判明しています。これは、建物跡が最も多く確認された時期とも重なります。まさに、時政や政子、義時が生きた時代ですね。時政や義時は、鎌倉に入った後も、頻繁に伊豆に下向げこうしており、文治二年(1186)に願成就院がんじょうじゅいんを建立するなど、依然として本拠地を重視していました。その後、嘉禎かてい二年(1236)に泰時によって、父・義時の一三回忌供養が願成就院で行われたのを最後に、『吾妻鏡あずまかがみ』では北条の地に関する記述は見えなくなります。このことは、北条氏が本格的に拠点を鎌倉に移したことを意味し、これに伴い、北条の邸宅としての機能も縮小し、伊豆との関わりは希薄になっていったと考えられます。

再び北条氏と伊豆の関わりが深くなるのは、鎌倉幕府の滅亡後です。生き残った北条の女性たちは伊豆に下り、北条氏邸のあった場所に円成寺という尼寺を建立しました。ここでは仏具や茶道具が見つかり、尼寺の暮らしを今に伝えています。

本拠地の伊豆北条は、北条氏の始まりの地であると同時に、終焉しゅうえんの地でもあったのです。

【鎌倉歴史文化交流館学芸員・山本みなみ】(広報かまくら令和4年2月1日号)