100日哲学チャレンジ☆18日目

 4月当初の僕は、彼女に毎日のように電話をかけていた。

 スパイものの小説を順当に書いていた頃は、もう少しマシだったのだが。仕事が忙しくなりすぎると、自分の思考がうまくまとまらず、少し気を抜いたスキに明日の仕事の段取りばかりを考えるようになる。
 結果、心が落ち着かず、ちっとも考えをまとめることができなくなり、小説どころかエッセイや日記にも手つかずになってしまった。自分の脳みそで考えることがキャパオーバーになると、考えなくても時間を過ごせることを人間は求めるらしい(僕だけかもしれないが)。とにかく、『何かを考えること』そのものから、逃げ出したかった。

 彼女はいつも明るく、前向きで、おしゃべりが大好きだった。そのかわり、落ち込んだときは激しくて、家の柱や石を、拳から血が出るまで殴ったり、痣ができるまで太腿をつねったりする(勿論、一生痕が残ったりしないようにはするらしい)。そんな感情的な面がXY座標だとすれば、化学専攻の学生らしい、分析的で冷静な面がYZ座標として垂直に交わっている。おしゃべりしていると、座標を立体的に移動していく彼女の精神状態が見てとれるようで、楽しい。
 教員志望の真面目な学生の彼女は、1年半にも及ぶ行動観察の結果から、僕の性格面での欠陥に最近気づき、その点に関してわりと厳しい指摘が飛ぶようになった。
 「先輩は、先輩自身の為に生きていない。もっと自分を大切にして。」
 大学時代に彼女と知り合った頃は、とても恥ずかしがり屋で、僕と目を合わせるのもやっとという感じだった。だが時が経つにつれて、「好き」が「大好き」になり、「愛してる」に変わった頃から、僕の性格と生き方について、色々と話し合うようになった。
 

 僕は平日は朝7時から夜8時まで働き、休日は研修や勉強に費やしている。勿論、趣味もきちんとこなし、家事にも手を出そうと躍起になっている。精神的に不安定になれば物書きや筋トレがあるし、「死にたい」と人並みに思うことはあっても、しっかり食べて寝ればケロリだ。「何も問題ない」と言い切れそうなこの状況だが、クリアできない課題が見つかってしまった。
 

 「先輩の、先輩自身が好きなところを教えて。」
 

 別になくてもよくね?とよく思っているので、正直に「特にない」と答えたのが間違いだった。怒られた。「わたしは、怒ってません」と2回言われた。
 世の中では、日本人は自己肯定感が低いとか、自信がないとか言っているが、それは日本人の性格的特徴というよりも、日本社会を上手く生きる作法みたいなものだと思っている。「わたしはそんな大した人間じゃありませんよ」と言っておけば、失敗したときに恥をかいたり、自分のプライドが傷つけられたりすることを未然に防ぐことができる。或いは、長く続いた江戸時代の「身の程を知れ」の文化から鑑みて、責任回避の為に自己主張を避けるという処世術ともいえるし、集団生活、ひいては社会秩序の維持を優先して、出る杭は打たれ続けた結果生まれた国民性とも言えるのかもしれない。いずれにせよ、全て日本社会において「よく生きる」為の作法に過ぎず、実際に自己肯定感が低いとか自信がないとかいうのは別なのではないかと思っている。要は、「あなたは、あなたに自信がありますか」と聞かれて、「はい」と答えるのが社会におけるよりよい答えだとは言いづらい雰囲気があるから、冗談以外では言わないだけなのだ。

 だから僕は、「自分の好きなところを見つけよう」とか人にはよく言うし、仕事でそういうワークショップをやったりもするけれど、自分自身に翻って考える必要性はないと考えている。別に自分を好きとも思わないが、嫌いとも思わない。自分自身とは、面倒なことに一生付き合うことになるんだから、まあゆっくり向き合っていけば良いんじゃないか、くらいに考えている。
 まあだからといって、思考停止する為に毎日彼女に電話するのも確かに迷惑かもしれないので、こうしてまた書き始めた訳だ。

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