100日哲学チャレンジ☆21日目

 最早、100日チャレンジとは言えないくらい、前回の投稿から日にちが開いたが、訳合って家に10日間カンヅメになってしまったので、また考えていることをまとめていこうと思う。

さて、「ジャッジ 裁かれる判事」を昨日は見た。

 父ジョセフは地元の判事で、息子ハンクはやり手の弁護士。オフィシャルサイトの紹介文を読むと、「サスペンス」と書いてあるので、普段「バーナビー警部」やアガサクリスティー等のイギリスのミステリーを見ている自分としては、次々と人が死んでいく中で、犯人を捜すのかと思っていた。
 しかし映画のテーマは、父と子の関係や、故郷で働くことだった。自分のことを愛してくれる人がいっぱいいる故郷で過ごすか、都会に出てピチピチギャルと結婚して、名声と金をほしいままにした生活を送るか。なんだか極端な対比に思うかもしれないけれど(映画だもんね)。能力が高いハンクのような人にとって、自分に人生の選択権があるんだということは、意外と気づかないのかもしれない。
 というのも。能力が高いと、「自分が何もかもやり遂げた」と思いたいし、誰かに助けて貰って生きていく自分がいることは、プライドから認めたくないんだろう。そうすると、支えようとしてくれる人や慰めてくれる人、味方が寄りつけない人間になって。「人の言うことを聞かない」と言うのは、その人が大事だと思った価値観の反対をなぞるだけなんだから、結局周りの言うことに従っているのと同じだ。自分で自分の進む道を、知らず知らずのうちに狭めてしまって。「なんか、上手くいかない。満たされない」自分がいたら、自分を叱ったりした親とかのせいにして。周りに反抗して、自分の意志を持っているように思えて、実は自分で選択した人生じゃない。それって、時間と能力の無駄遣いだなと思った。
 
 ジョセフとハンクが、竜巻が迫る中で喧嘩を始めるシーン。
ジョセフ「お前の学費を払ってやったのは誰だ?」
 ハンク「おれはロースクールを首席で卒業した!おれの実力だ!」
ジョセフ「私に認めて欲しいのか、じゃあ、言ってやる。よく頑張ったな。」
 すげえ気持ちの分かる会話だなって思った。結局、承認欲求の塊のハンクは、『自分でやり遂げたと認められたい』ばっかり。でも、人が認めてくれていることに、ただ気づいていないだけなんだと思う。何故かと言えば、自分が、認めていないから。周りの優しさが、例え自分が気に入らない形で示されたものであったとしても、自分で自分のことを認めて、「周りに支えられる自分」の存在を許すことができれば、優しさを受け入れる心の余裕ができるように思う。(22日目へ続く)
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?