愛知・名古屋のモノづくりの歴史まとめ

 今週の依頼
「もし名古屋の暮らしと商いの学びコンテンツをつくるとしたら、 コンテン 
 ツ作り前に名古屋のどこリサーチすると深まるかな~」

 ということで、私の独断と偏見でまとめたものを、以下に掲載。

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 さて、それについては、「時代」と「立場」によって変わりますね。
名古屋の暮らしと商いを理解するキーワードは、「過去とのつながり」と「職人気質」、そして「輸送経路の整備」ですね。

 では、名古屋の暮らし、ものづくりの歴史、商いの歴史を、かいつまんで話しましょう。

 まず、古くは縄文弥生、古墳時代から、この地域ではものづくりは行われていました。これは、古墳や埴輪、器を焼く登り窯が非常に多いことからもいえます。これは、粘土が豊富にとれることと関係しており、平安・室町時代以降には、瀬戸や常滑で焼き物づくりがかなり盛んに行われるようになります(志段味古墳群や、瀬戸蔵ミュージアム、及び瀬戸周辺の商店街等)。

 更に室町後期から江戸時代になると、築城や開発のために大量の木材が必要になった為、木曽川や長良川、そして堀川による木材の運搬が盛んに行われます(白鳥庭園の貯木場、名古屋城)。

 そして、名古屋城から熱田、七里の渡しは街道筋になっており、東西の要衝として非常に栄えました。熱田神宮に行くなら、その南側の七里の渡しの入口も合わせて見ると良いでしょう。

 また、河川や運河は徳川家や明治以降の外国人招聘による治水工事によるものです(かなり珍しい閘門式運河を採用しており、金山には今でも中川運河に水門が残っております)。

 因みに、織田信長や、豊臣秀吉、そして尾張徳川家による政策も、商売を重要視しています(本丸御殿の展示。四間道周辺等の、古くからの街道)。

 運河による物資の運搬が可能になったことは、後にセトモノを世界に輸出する為に大きな役割を果たすことになります(「ノリタケミュージアム」や、「文化のみち橦木館」)。因みに、東区は江戸時代に武家屋敷だったのですが、この広い跡地に、皿の絵付け工場等が作られていきます。

 海外向けに大量にセトモノを輸出する為に、明治時代には鉄道が敷かれます。これがのちの、名鉄瀬戸線です。明治時代、名古屋港はセトモノ輸出で栄え、この頃かなり整備が進みました(名古屋港の整備は、奥田助七郎が主導。「名古屋港ガーデンふ頭」にある、名古屋海洋博物館等で分かります)。

 そして、鉄道、木材、運河、輸出入ができる港が揃ったことで、豊田佐吉がトヨダ自動織機を企業します。
 このときの資金力と、機械技術、そして弟の豊田喜一郎の自動車国産化への思いがあったからこそ、世界のトヨタは自動車製造へと走り出すことができたのです(トヨタ産業技術記念館)。

 一通りの流れはこんなもんですね。

 つまり、前の時代で開拓した技術や資源が後の時代へと「つながり」、海外から輸入した技術であっても「職人気質」により日本らしくアレンジされ続け、材料を仕入れる「輸送経路」の整備を為政者たちも意識してきたことが、暮らしを豊かにしてきました。

 全体的には、「名古屋市博物館」に行って頂くと様々な資料が見られると思います(以上)。

<参考>



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