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自分のスタンダードとの狭間で

みんな確かに【自分の普通】の中で生きてきているんだと信じている。たまに(よく?)違うものを受け入れられる多様性がある人間になろう!なんていう記事や、排除するような動きをする人を非難するひとを見る。けど、それは何だか次元が違う気がしていて。多様性を受け入れられる人は、ただ頭で理解しているだけじゃなくて、体験として実体験として経験するシーンが多かったんじゃないのかなって思う。

最近、仲の良い後輩がLGBTであることをそれとなく告白してくれた。長年の片思いが実って、やっと付き合えたこと、まだ付き合って浅いこともあり幸せで周りに言いたいこと。それはとっても幸せそうで、それを聞いた私も嬉しくなるほどたった。

特に偏見を持ってたわけでもないから、周りにそういう人がいても受け入れられるんぁろうなぁって思ってた。けど、いざその話を聞いて、家に帰った後に、それを素直に受け入れられない自分がいた。LGBTをじゃなくて、それが普通だと思えない自分に、だ。少なからず聞いた際はショックというか、動揺した。動揺した自分にショックというか…。

気心知れる友達に、相談したところ(LGBTと打ち明けられて、受け入れられない自分がいたことを)、それは経験によるものだと言ってくれた。スッとしたし、確かに何でも初めてのものは少し嫌だったなぁなんて思ったりもする。そこさえ履き違えなければ、世の中もっとスムーズになるのかもしれない。排除じゃなくて、経験がないだけ。だからこそ、それが普通になる生活を!と言っているのだと考えて。

打ち明けてくれた後輩は、信頼してくれたんだなって嬉しくなった。みんな、どんな人であっても個人的なマイノリティなものを打ち明けるのは勇気が必要だよね。それを気付かせてくれた機会に感謝しよう。


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