世界がもし100人の村だったら――見えない世界に思いを馳せる

 こんばんは。12月も半ばですが暖かいですね。みなさんは何故だかわからないけど、日頃頻繁に思い出すことってありますか。

 わたしは最近、「世界がもし100人の村だったら」というトピックについてよく思い出します。

 これはもし世界が100人の村だったら、そのうち何人がどのような人かという想定を数字で示すという試みです。このトピックはもともとはチェーンメールで広がったもののようで、後々本にもなっています。わたしは実はこの本は幼少期に手に取ったかな程度なのですが、この言葉を最近頻繁に思い出すようになりました。

 なぜこのような問いかけがされるのかというと、それは世界がとても広いからでしょう。わたしが今生きているこの場所から地球を半周すれば全然違う世界が広がっています。そこで文化も言葉も違う人達が、異なる生活をおくっているということを実感することは容易ではありません。

 そのような「世界の遠さ」を自分のこととして捉えるために「世界が100人の村だったら」の問いかけはされたのだと思います。

 最近とてもよく思うことが、自分が目を閉じたら、世界はどうなっているんだろうということです。例えば今わたしが目を閉じたら、部屋の換気扇の音と隣人が立てる物音ぐらいしか聞こえません。でも事実として世界の別の場所では全然違う出来事が起きています。この事実をどう捉えればいいのかということを考えるのです。

 そもそもわたしたちの誰も、この世界をそのまま実感したことがある人はいません。「地球は青かった」と言っても、確かにそれは宇宙から地球を見るというとてもすごい経験なのですが、でもそれは地球を外側からまるっと見たということです。その中で生きている人々や地域をすべて実感したということではありません。そもそもそんなすべてを実感するなんてことは誰か一人の人間ができることではないのです。

 ではなぜわたしたちは世界というものが地球の丸い広大な大地に広がっていて、そこで別の人々が暮らしているということを当たり前のように受け入れているのでしょうか。それは想像の力によるものです。見えないし感じることもできないけれど、別の場所でその地域の人々の暮らしが今もある。この事実を当たり前のこととして受け入れているのは、実はすごいことなのかもしれません。

 最近の世界の情勢を見て、もう目を閉じてしまおうかと思うことがあります。でもやはりそうしてはいけない、見えない世界でも思いを馳せないといけないと思っています。

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