言葉で人の気持ちを十全に表すこと。

 小説や詩やエッセイ、歌の歌詞なんかもそうだと思うが、こういうものは結局〈人の気持ち〉を表すことが一番の目的だと思う。でもそれって簡単じゃないよね、、というよりそれが明治・大正・昭和の文豪と呼ばれる者たちを悩ませ、葛藤させたものだと思う。今日はそういう話。

 詩や歌詞が一番こういう問題に近いのかなと思う。形式がはっきり決まっていないから。口語、文語。自由詩、定型詩。いろいろな形式が選択できて、その〈気持ち〉なるものに最も近いもので表現することができる。

 一番それっぽいように見えて、実は小説が〈気持ち〉を表現することでは一番難しいように思う。形式がかなり決まっているから。もちろんいろいろな実験的なことも小説で試みられた。でもやはり、そういうものは「実験的」と形容されてしまうように、一般ではない。小説はとても静的で、動きがない。抽象的だけど、〈すでにある〉という感じがする。その時に生まれるんじゃなくて。

 本当に文字を通した創作というものに向き合っている作家のテーマは、おそらく時代を問わずこのことなんではないか、と思う。そのことの葛藤の末、倒れたのが芥川龍之介のような気もする。だからこそ彼ののこしたものは原石のような気がする。大事に読んでいきたい。

 私の文章は変わってると、よく言われる。優れている、ではなく、変わっている、と。大学に入ってすぐ指摘され気づいた。それからも度々、そして芸術系の専門の人に特に言われる。何か書く訓練をしているのか、と言われるけど、全然してない。ただ日記は子供のころから書いていた。どうにもならない感情はすべて日記として言葉にすることで生きてきた。

 〈普通に〉書くように試した時期もあったんだけど、どうもうまくいかない。上手くいかないというか、これじゃあ自分の感情が乗らない、というか表せないと思ってやめた。自分の文章ではないなと。やめてよかったと思う。

 内容と形式って密にかかわっていると思う。かかわっているというか、そのものというか。最近の小説から自分が離れているのも、そのことと関係あるのかな。多分よいものはたくさんあるんだけど、発見できていないんだな。

 (おわり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?