バナナはおやつに入りますか?――これこそソシュールの問いか。

バナナはおやつに入りますか?

日本人であれば誰もが聞いたことのあるこの問い。
バナナ遠足のおやつに入るか問題。

ソシュールの言語学を学ぶにつれ、これこそソシュールが打ち出した構造学的言語学の問うたことなのではないかと思った。
そんな冗談をと言わず、もうちょっと読んでみてほしい。

ソシュールは言語学を学ぶ上では欠かせない存在だ。
しかしその内容はとても難解である。
わたしは大学院生の時に度々それを理解しようと努めたが、やはり今になっても難しい。

しかしそこで問われていることは、時代を超えて重要なことである。


たとえば上の問い、「バナナはおやつに入るか」。
もちろんソシュールがこのようなことを言った訳ではないが、
ソシュールの言語学で問うたことはこのことと無関係ではない。

日本では(もしかしたら他の文化でもそうかもしれないが)遠足でのおやつの代金が決められている。バナナはおやつに入るかという問いは、この代金の中に、バナナ代も含めるのか、という問いである。含めなければ浮いたバナナ代金分のおやつを買うことができる。

そもそもこの問い自体が、遠足でのおやつ代金の制限がある文化でしか成り立たない。デザートは後でという食事の躾にも関わるかもしれないが、ひとまずそれは置いておこう。バナナがおやつかどうか、正直それは人それぞれだし、本来こんなに広く知れ渡る問いではない。

この問い自体が、おやつ代金の制限という文化の枠組みが創り出したものだ。ソシュールがその言語学において考えたことは次のことだ。わたしたちがモノの意味というものを習得する時、それは生得的か、それとも知識として教えられて知っていくものなのかという二択で考えられがちだ。しかしそれは文化の枠組みの中で構造として身に着けていくものではないか。これがソシュールの言語学だ。わたしたちは言葉をどうやって知っていくかという普遍的な問いに、新たな可能性を提示したのがソシュールであり、文化や言語の体系というものをそこに見たのがその新しさであった。

結局また難しい話になってしまった。問い自体の面白さ半減である……か。もちろんというか、哲学とはそういうものなのだが、重要なのは問いであり、バナナがおやつに入るかはわたしが今答えを出せることではない。個人的な考えとしては、皮を剥いてスライスしたバナナをお弁当箱に忍ばせればいいと思う。

問いは偉大だ。ソシュールの問いが、100年以上の時を経て、今わたしにバナナおやつ問題についてのメモを書かせている。哲学の問いは閉じられることがない。ソシュールに敬意を払いながら引き続き考えていく。


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