文学の当事者性

かつて文学の世界では「プロレタリア文学論争」というものがありました。

労働者階級によるスローガンを含むような文学作品は、文学作品に値するのかという論争です。

現代でこの論争が起きたら、そりゃ値するでしょう、となりそうですが、しかしこの論争は長く続き、文学をめぐる議論のなかでとても大きなものでした。

この論争は現在の当事者性の問題にもつながるところがあります。

当事者性のある作品が増えた。それはどういうことか。いいことか悪いことか。そもそもこの問い自体を問い直す必要があるのか。などです。


わたしも詩を書くようになって、この問題を自分の体感を通して改めて考えるようになりました。

詩の中に特定の事件や○○派のような主張を明言して含み込むことが、どうしてもできません。

具体例を出したり、主張をはっきり伝えた方が分かりやすいといつも思うのですが、なぜかそれは自分の詩ではないなと思ってやめてしまいます。

この問いは自分の中で重要なものです。

詩を書いている時は、とても個人的な時間の中にいます。

文脈にならないような、固有名詞にならないような内側の気持ちをやっと言葉という共通項に書き出しているというような感覚です。

でもその言葉自体もツールではなく、そのものが目的なのですが。


わたしが言葉について考える理由がこの問いにはあるような気がします。

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