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自然の総譜を求めて:ユクスキュルとある青年の出会い

ユクスキュルの思想を前期・後期に分けるならば、前期はカエルやウニの生理学の研究をしていたように、ミクロな物理・機械的現象にスポットを当てて動物の「体制」を探究していたのに対し、後期は生物主体とその周りの環境との関係性、つまり「意味」の探究を行なった。

言い換えると、前期は「機能環(知覚世界と作用世界)」の発明とその探究、「主体の科学」の誕生。後期は「意味の理論」の探究である。

前期において生物がただ物質的・機械的な存在ではなく、世界を解釈する主体であると確信したことにより、ユクスキュルにとっての自然界は「記号」に彩られることになった。

特に記号としての自然現象を論じる際には「対位法」という音楽理論から引っ張ってきた概念をよく使っている。彼にとって、自然は意味によって構成されていたということである。意味が連鎖し、影響し合い、重なり合い(和音)、3つの主体(個体、種、自然全体)がそれぞれの旋律を奏でながら自然全体を奏でているという。そして、「自然は自分で作曲した曲を聴く作曲家である(※1)」というロマンチックな比喩にまで至った。

注目すべきは、対位法のアイデアはありながら、総譜という自然界を統べる生命の全体性への視点は、ある時点まで欠けていたようだ。

以下は『意味の理論』(思索社)に出てくるユクスキュルとある青年のエピソードである。

私の記憶によれば、 メンゲルベルクが、アムステルダム・コンセルトヘボー交響楽団を指揮して感動的な演奏を聴かせたのは、マーラーの交響曲であった。混声合唱を加えたこの大オーケストラが、 圧倒的な輝きと充実感をもって鳴り響いたのである。

私の隣に総譜を熱心に見て座っていた青年が、最後の和音が鳴り終わると同時にほっとため息をついた。

私は音楽に関しては無知だったので、その青年に、譜面を眼で追って、音楽を間接的に耳で聴くことが、どんな満足感を与えるものなのかと尋ねた。すると彼は急に熱心になって、総譜を追う人だけ が、音楽作品を完全に観賞できるのだと断言した。人間や楽器の出す個々の音声は、それ自体で一つの本質的な存在ではあるが、符点と対立符点によって、他の声域と融合し、より高い形になり、その形がさらに成長し豊かさと美しさを加え、一つのまとまりとして、作曲家の魂をわれわれに伝えてくるのだと説明した。

また総譜を読んでゆくと、教会堂の柱がすべてを包みこむ円天井を支えているのと同じような、個々の音声の成長と分岐のあとを追うことができるのだそうである。

この非常に説得力のある調子でおこなわれた青年の話によって、自然の総譜を書くことが生物学の課題ではないのか、という問題が私の頭に浮かんだ。
                   
                                          (ユクスキュル『意味の理論』(思索社)p. 206)

オーケストラで鳴り響く会場で、通な音楽好きの青年と出会い、生物学が目指すべき一つの重要な課題を発見したユクスキュル。

物理的因果関係に支配された説明でなく、主体とその周囲の関係に目を向ければ「意味」という次元が芽生える。さらにはヒトの生活圏を含めた自然界の全てが記号を使って記述され、近づいたり、引いたりしてメタ的に意味の構造を捉えることが可能になる。

このように意味的な構造に埋め込まれた存在として生物を捉えていたからこそ、ユクスキュルは(どんな高等な生物でも)あらゆる生物は目的を持って生活しているのではなく、計画に沿って生活していると考えた。曰く、生物の行動が目的を持っているように見えるのは、人間側が自然界に心理的なものを迂闊に持ち込んでいるに過ぎないからだ。

今、ユクスキュルと青年の出会いから生まれた自然の総譜の問題は、直系的には「生物記号論」に受け継がれ、ヨーロッパを中心に議論されている。

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※1 :Uexküll, Thure von(1992).  Preface to A stroll through the worlds of animals and men: A picture book of invisible worlds. Semiotica 89(4): 319–391.

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