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演劇の感想:PROJECT WALTZ VOL.2|プロト・パスプア『1984年1001月』

PROJECT WALTZ VOL.2

2月28日(日)15時/札幌・BLOCH

札幌の小劇場BLOCHが企画する3人芝居フェス。3団体がそれぞれ、30分程度の3人芝居を上演していた。幕間のコメントによると、偶然にも、すべての団体が結成3年目らしい。

今回の特徴なのか、はたまた最近の札幌の特徴なのか、どの団体も「舞台上の俳優」以外の媒体を作中に利用していた。ベルメモアのダンサー、グループ俺達の映像、ポケット企画のライブ音楽。

①カンパニエ ベルメモア『heavy chain』(チームG・山口健太さん出演回)

「言葉は人を傷つけるか?」と聞かれたら、かなりの人がイエスと答えるだろう。言葉が行動をつくるという価値観にも、納得する人は多いと思う。

主題と思われる「言葉の負の力」について衝撃を受けるには、説得力が弱く感じられた。だって知ってるんだもの。言葉は取り扱い注意。発見と再発見では、必要なファクターがまったく変わると思う。

だから冒頭のセリフの時点で正直(あ、面白くないかも)と思ったんだけど、不思議とずっと観ていられた。言葉ひとつひとつが短くて、リズムがいい。三者三様で見た目もいい。

物語はポートレートカメラマンと、被写体モデルの話。カメラマンはモデルを性愛の対象として見ていて、自身の立場を利用した言葉で相手を支配していく。モデルは嫌々従っていたが、最終的に強い言葉で拒絶する。激昂したカメラマンがモデルを殺してしまう(?)という結末。各人物の心中を、常に舞台にいる全身黒タイツのダンサーが表現していた。ダンサーの表現によると、モデルも実は悪い気じゃないみたい。こうしてすれ違いが成立して、言葉が悲劇を招くことになる。

ダンサーの表現するものが彼らの本心であるとして、それが意識・無意識のどちらなのか。つまり彼らは(特にモデルの男は)自らの本音に気づいているのか。それによって悲劇の見え方も変わってくる。

僕はなんとなく、意識的なんだろうなぁと感じた。無意識とするには、ダンサーの表現は説明的すぎた気がする。とはいえ表情のない真っ黒な動きで説明しきるって、すごい。

体での表現がもう少し抽象的だったら、2人のセリフはさらに少なくできて、余白をたっぷり楽しめる作品になったのかなぁとか。

今回の作品、僕は満足はできなかったけど、ベルメモアがつくる演劇は今後も見たい。不思議と惹きつけられる魅力があった。たぶんベクトルが似ているんだと思う、好みに。

山口くんに聞くところ、ベルメモアには書道家もいるらしい。楽しみすぎます。

ちなみに、配信では声が聞こえなかったという話を聞いた。配信環境が抱える課題だよなぁ。なんとか改善していきたいね。

②グループ俺達『第52回全日本お兄さんGP』

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会話のすき間に沈黙を挟んで笑いをとろうとするやつ。あれ、久しぶりに見た。絶滅したと思ってた。でも舞台上の映像でやるのは、ちょっと難しかったと思う。

総じて笑いどころを逃してしまって、結構つらかった。演じている3人がすごい楽しそうで、僕も乗っかりたいんだけど、笑おうとすると先にいっちゃうし、急ごうとするとスローダウンしたりして、始終リズムをつかめないまま終わってしまった。

気持ちよく笑えたのは、お兄さんミュージカルのシーン。楽しい。お兄さんミュージカル、60分見たい。

話の内容はぶっちゃけどうでもいいんだと思う。とにかく笑わせたいという気持ちを感じた。その熱感が、テクニックとかにも及んでいたら、もっとたくさん笑えたんだろうなぁ。

グループ俺達、笑顔の似合う、ピュアなグループに見えました。かわいい。

これは彼らに限った話じゃなく、自戒も込めて。笑いを求めるあまり、だれかを傷つける表現にならないように気をつけよう。

③ポケット企画『歴るロウ轟き魔女でんでん』

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劇場で見る前に、事前批評文の執筆を依頼されて、彼らの稽古場で観劇した。ざっくりしたことは既に書いてあるので、こちらを読んでください。

もう少し細かいところで気になったことをいくつか。

まずは暴力的なのっぺり感。これが気持ちいい。たぶんグレンラガンとか観てた人が好きなやつ。最初から最後まで圧がすごい。

稽古場で見たときもすごかったけど、BLOCHでも同じくらいのプレッシャーをぶつけてくる俳優の地力に感服しました。

小道具や衣装や美術がその意味をどんどん変えていく。というかもはや、それらに一貫した存在意味なんてない。扉もカーテンも足も箱も窓も、ある一瞬にのみある特定の意味を持ち、ほかの瞬間ではどうでもいい。

モノゴトの価値・意味のゆらぎは、この作品のテーマなんだろうけど、こういう細かいところにも入れてくるのがかっこいい。

ラスト、魔女はでんでん虫で、老人はバッタでということが分かる。ただ、これはどういうことなんだろう。驚異的に見える魔女も、おそらく雷様であろう老人も、そこらの虫なんだよということ?人間の子から見たゆらぎを表しているのだろうか。ちょっと言葉遊びに傾倒しすぎただけなんだろうか。


プロト・パスプア final『1984年1001月』

3月18日(木)20時/札幌・カタリナスタジオ

『1984年1001月』は退屈だったが、ゆえに衝撃的だった。

1949年のジョージ・オーウェル『1984』を、未来の日本を舞台に変更した作品。表題の『1984年1001月』は、単純計算で2067年の5月になる。

あらすじは『1984』の表層をなぞったような印象で、ウィンストンにあった「自由」へのあこがれは、今作ではとても説明的に感じた。演劇には、“客が絶えられる時間内で”という厳しい時間制限があると思っている。ゆえになにかをカットするのは仕方ないけど、主人公を軸にした物語とするなら、序盤で感情移入できないのはちょっと退屈だった。

物語の展開は追いやすく、たぶん『1984』を知らない人でも話を理解できたと思う。説明的と書いた演技も、その点ではとても良かった。「演劇で分かる『1984』」的な。いいね。

僕はこの作品を、日本の未来を描いた作品だと思って見ていた。すると作中に違和感があり、それが引っかかってモヤモヤしていたが、観劇翌日、この感想を書いている最中に、ちょっと見方を変えてみた。

この作品、未来ではなく、今の日本を描いたんじゃないか。

「1984年が来る」のではなく、「1984年はすでに来ている」と言っている。そう考えを変えてみた。

党によって支配されている人々こそが、いまの僕たちで、その体制に反抗を覚える主人公やその恋人は、僕らとは違う思想を持つ人間。すると違和感につじつまが合った。

ずいぶんとイマ風につくられるニュースピークも、イヤリー(テレスクリーン)という未来にしては古めかしいツールも、主人公よりよほど人間らしい党員も、セックスするだけで大好きになっちゃう2人も。

気づいたとき、僕はハッとした。全体主義を描いた『1984』はどこか他人事で、『1984年1001月』もその延長線上にあると思っていた。だから主人公に感情移入できず、臨場感のなさをつまらなく思いながら観ていた。僕が自分を投影するべきは、体制下にある人々で、党そのものだったのだ。

現代の巨大な相互監視ツールはSNSだ。人そのものがテレスクリーンとなり、SNS上で裁判を起こす。SNSではできる限り単純化した表現が受け入れられる(バズる)。受け手も作り手もファストコンテンツを求めているし、コンパクトなことばを欲している。「超いい」はすでに広まっているニュースピークだ。

すでにニュースピークとダブルシンクを身に着け、SNSという相互監視ツールを駆使し、大胆に全体主義思想を拡大させている「国民」という権力者の存在に、改めて気付かされた気がした。

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