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演劇の感想:coyote『優しい乱暴』 電話演劇2月号『悩めるサクラ』 座・れら『空の村号』

地点『だれか、来る』

1月16日(土)14時/札幌・クリエイティブスタジオ

札幌の劇場にて、京都の劇団が作った、ノルウェーの劇作家ヨン・フォッセの作品を観た。

観劇中にルールや物語を見つけられなかったこと、それから、公演日の直後に発表された、地点を取りまく騒動についての新しい報道の方がよほど衝撃的だったこと。

ぼくはこの作品と団体に対して、語る言葉を持っていませんでした。

劇団Coyote『優しい乱暴』

2月6日(土)14時/札幌・コンカリーニョ

札幌演劇シーズンに参加している作品。2018年に札幌・BLOCHで上演されたものらしい。ぼくは今回が始めての観劇でした。

抽象的な作品だった。筋道を探ろうとすると難しい。これが亀井さんによるコンセプトアートの展示会で、「優しい乱暴」をテーマにした作品が並んでいるとしたら。ぼくはそれらの作品群に、分かりやすいストーリーではなく、共通項だとか現実との接点だとかそういうものを探す。

そういう、言葉や関係性で互いに紐づけられた「出来事」として楽しんでいた。「ストーリー」よりも圧倒的に「人」だった、とも思う。

「85歳の女の子」という、印象的な言葉が出てくる。彼女をおばあちゃんではなく女の子にしたのは、横尾さんが演じる男性の「乱暴な愛」なのかもしれない。愛が女の子に留まらせ、それを目撃したぼくは美しいと感じた。

これは結果論で、見方によっては成長を妨げたともとれるかも。それでも数十年という時間、彼女にとって永遠にも等しい時間で、1人を待ち続けた彼女は美しく思えた。

85歳の女の子を演じているのは脇田唯さん。年齢に寄せたキャスティングではなくて、ピュアさというか、ジュブナイル性が強く感じられて好き。

描かれる出来事それぞれは独立しているようだけど、抽象的には共通していて、愛することに繋がる。

この作品を見ても一概に「優しい乱暴=愛」とは定義できなくて、「優しいこと」「乱暴なこと」「愛すること」について考えるきっかけをくれた。ありがとう。

ともすれば「○○さんが上手だった」「キレイな作品だった」みたいな、具体的すぎる感想になってしまいそうだったので、出来る限り自分の気持ちに敏感になっていきたいなあ。

ところで、ミニLIVEまで含めてひとつの作品というアナウンスは、まさにその通りでした。最高。

電話演劇2月号『悩めるサクラ』

2月7日(日)15時半/電話

高校3年生で進路に悩むサクラから電話がかかってくる。ぼくは相談を受ける形になっていった。人によっては同じように悩みを打ち明けあう形になるだろうし、説教する人もいそう。

めちゃくちゃ雑に言うと、超楽しかった。

ちょっと雑すぎる。無責任に他人の人生を変える快感とか、根拠なく相手と同調する快感とか、意味もなく相手を暴いていく快感とか、そういうちょっとイケナイ欲求がめちゃくちゃ満たされた。

行ったことはないんだけど、イメクラにはまる人の気持ちってこういう感じなのかなぁ。

ぼくが電話演劇に参加したのは、前回は車中で、今回は打ち合わせ中の喫茶店。そのとき、僕自身と周りとの関係がすごく特殊に感じられた。

まだうまく言葉にまとめられないんだけど、新感覚なので、安心して外出できる場所がある人はぜひ一度、人のいる外出先から参加してみて欲しい。

座・れら『空の村号』

2月14日(日)15時/札幌・やまびこ座

コヨーテと同じく札幌演劇シーズンの上演作品。2015年に初演を行っていて、こちらは観劇済み。

2011年に起こった東日本大震災と原発事故によって、福島の山村で暮らす少年・空を取り巻く環境が刻一刻と変わっていく。
空は村に撮影に来ていたドキュメンタリー監督に出会い、現実の悲しさを拒絶するように、「本当のこと」をいっさい消したフィクション映画『宇宙海賊船 空号の冒険』を撮ると言う。
だがどうしても排除できない現実を、最終的に空は受け入れ、フィクションとノンフィクションの入り交じった映画を作ると監督に伝えた。

作品タイトルになっている「空の村号」は、ラストシーンで村から疎開していく空が口にするセリフにあった。空号ではなく、空の村号。

「村」という現実の象徴と「宇宙船」というフィクションの象徴が、空の中でついに混ざり合う瞬間にこの少年のたくましさを感じた。

人間は基本的には愚かで、間違いと正解の道があったら間違いを選ぶ、とぼくは思っていて、2011年にはあんなにも「忘れてはいけない」と心に留めていたのに、いまや3月に一度思い出して手を合わせる程度になっている人は多いと思う。

胆振東部地震だってもちろんそうだ。地下鉄サリン事件もツインタワービルのテロも、第2次世界大戦ですら、既にほとんどの人がそれを知らなくて、現実味のないフィクションになってしまっている。

現実はやがてフィクションの世界に閉じ込められていくんだけど、ぼくは社会と関わる人間として、そのフィクションはかつて確かに現実の中に存在したことを忘れないようにしよう。子どもに伝えるとか広く知らせていくとか仰々しい決意ではなくて、ただぼく自身ができる限り間違いの道を選ばないために。

たぶんこの世界には空のように、受け入れがたい現実を受け入れ、受け入れたいフィクションを諦めた人たちがたくさんいる。望んでそうした訳じゃなく、半ば強制的に受け入れている人だっている。

『空の村号』はそんな人たちにフォーカスを当てる大切さを、フィクションを作るノンフィクションの存在を改めて教えてくれた。作品が静かに、やさしく、遠慮なしに、無意識なぼくをひっぱたいてくれた。

新型コロナウイルスという受け入れがたい現実に襲われているいまの時代、この作品は「ひとつの災害を伝える」以上の意味を持つと思う。

余談だけど初演のメインキャストは、世代の近い友だちが演じていた。今回は年齢も容姿もバラバラな人たちが演じていて、作品の深みが増していた気がする。書いておきながら、深みってなんやねんって思ったのでちゃんと言うと、作品の普遍性が増していた気がする。「普遍的」は「抽象的」に近い。なんでもかんでも具体的に言えば良いってもんじゃないよな。

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