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年齢を重ねることの意義

高校生からやっているTwitterにいつもどおり投稿をした時、違和感に気付く。

内容は何でもないことだったと思う。

ツイートを見返すと本当に大したことなかった。

「何でこんなこと呟いているんだろう。」

「こんな歳になって幼稚なこと言ってるなー」

「…そういえば自分何歳だっけ?」

「なんで今の年齢でこの投稿内容はダメだ、と思ってしまうんだろう?」

5分くらい考えてiPhoneのメモに「客観的年齢観。世代観?」とだけ記入していた。それを掘り起こして通勤電車で再考しているのが現在である。

一応ワードを検索してみるがこんな言葉は見当たらない。言いたかったのは年齢という1つの枠の中に自分の行動や言動が収まっているのか?それを客観的に判断しているのではないか?ということだ。
例えば、40代上司の「あっちの部署に配属された新人の子が可愛い」とか「うちの部署にも女性が欲しいな〜」という発言は正直聞くに耐えない。おじさんが若い子を好きなのは見ててイタい。だが、本当に歳を重ねるだけでこういった考えがなくなるかというと、そうではないと思う。(実際に男性の好みはどの年代でも20代あたりの数値をさまよっている。)

「客観的年齢観」を代わりに「年相応」という言葉に変換してみた。Google先生によると、

年齢に似つかわしいさま。 若作りでもなく、年寄り臭くもない様子。 服装や髪型などについて言うことが比較的多い。

いくつかの検索結果を見ると、「年相応に見られるコツ!」とか「年相応に見られなくて辛いですどうしたらいいですか?」と言っている人々が。

大体がお年を召した方々の悩みだった。年齢を重ねると服装にしろ、言動にしろ、髪型にしろ選択肢が狭まっていくようになる。

特に言動というのは厄介な制約な気がする。自分が発する言葉は自分の思考から生み出される。年相応に見られたければ、40代や50代に向けて良質な思考を積み重ねる必要があるのだ。成熟した思考は服装や髪型のようにすぐには身につけられない。

そう考えると、そもそも年齢というナンバリングの本質はどれだけ思考が成熟しているかという指標ではないかとすら思える。

それが歳を重ねることの意義ならば、日々アップデートすることを怠ってはならない。

世代観について主観と客観のズレを出来るだけ減らす努力をしていこう。

それでは。






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