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他人と実際に握手をすることでさえ、特別なことになる。

そうね、おそらく、宝石のように贅沢品になるでしょう。他人と実際に握手をすることでさえ、特別なことになる。人と人が触れ合うような機会は、贅沢品です。エネルギィ的な問題から、そうならざるをえない。人類に残されているエネルギィは非常に限られていますからね。(一部抜粋)

小説「すべてがFになる」より抜粋。

作中で天才として描かれる真賀田四季の言葉。今話題の "濃厚接触" の話ではない(2020年3月現在)。VRが現実として浸透した世界で物質的アクセスの価値について見解を示した。刊行は1996年でまさに第一次VR ブームの真っ只中だった。当時を知らない私からみれば「先見の明が...」と思うのだが、概念自体は存在し、非常に高価だがデバイスも販売されていそうだ。(約300〜400万円)

そして現在、第二次VRブームの最中にいる。

将来、少ないエネルギーを守るために人類は仮想現実の世界で生きざるをえなくなると言われている。

VR(Virtual Reality)=仮想現実。それを今の人たちが受け入れることができるだろうか。作中では技術的問題、道徳的問題、VRによる未知の影響という3つの問題があると言われている。しかしどれも些細な問題で時間が解決してくれるものであるらしい。VRが浸透し、その世界で暮らすことが当たり前になれば、それは "ただの現実" になる。ダイレクト・コミュニケーションがない子供達にとっては、仮想世界のアバター同士の握手こそが現実なのだ。

認知革命。それは人類に起きた最初の革命である。世界、宗教、国、政府、企業、家族、物語。どの概念も実在しないものだが、現実に在ると思いこんだ上でそれらを大勢が同時に信じることができる。確実に仮想現実が "私たちの生きる現実" となる日が来る。

話を戻そう。作中の舞台は孤島にあるソフトウェア研究所。窓がなく、コンクリートで覆われた建物は誰が見てもギョッとするだろう。

最新の設備、強固なセキュリティシステム、環境が整った職場で若きエンジニアたちが黙々と働いている。コミュニケーションは全てメールや仮想空間だ。

この研究所で勤める研究員について、主人公の犀川創平はこう言った。

自然を見て美しいなと思うこと自体が、不自然なんだよね。汚れた生活をしている証拠だ。窓のないところで、自然を遮断して生きていけるというのは、それだけ、自分の中に美しいものがあるということだろう?(一部抜粋)

たまに帰省をすると、自然の身近さに驚く(筆者の地元は田舎である)。そもそも自然というのはごく当たり前に存在するものなのだ。そこから遠ざかって便利な暮らしをしているくせに、ご褒美のようにたまに自然を楽しむ。

昔一番身近だったはずの川や山はお金を払って楽しむ場所になっている。しかもかなりの時間とお金がかかる贅沢品となってしまった。

今当たり前にある「直接的な対話」も不便さゆえに遠ざけられるのではないだろうか。現実が仮想の中に移った時、ダイレクト・コミュニケーションは宝石と同じくらい価値がある贅沢品となる。しかし、それは決して悪いことではないように思う。直接な対話の価値を再認識できるのだから。


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