大人になるとは、自ら優しさを与える事

自分が住む福岡から、両親の地元である長崎に帰省する時、母方の親戚の集まりが、いつも苦手だった。

母方の親戚には結婚をしていない人も多く、中には職に就いていない人もいて、就職や結婚をしている人でも、ずっと長崎に留まって、困ったらすぐお互いを頼り、依存しあって、自立する事なく、挑戦する事なく、ずっと田舎で過ごす様子を見て、

「私は絶対にこうはならない」

自立して、知識もつけて、沢山仕事して、面白い恋愛もして、そうやって私は生きていくんだと、
いつも密かに自分に言い聞かせていた。

それなのに、福岡の大学に行き、仕事も偶々福岡に配属で、25年間親許を離れず暮らしてきた自分を恨めしく思い、何の理由もなく、半ば逃げるようにして、自宅から車で30分もかからない場所で、数日前から1人暮らしを開始した。

昨日久々に、伯父の7回忌の為、両親と長崎へ行き、母方の親戚が一同に介した。

お寺でお坊さんの準備を待つ面々。
数年前より更に脚が悪くなり、益々誰かの手を借りないと歩けなくなっている母の叔母。
数年前より更にお腹が立派になったと感じる母の従兄弟。

日々自分で出来る事が増えて、人生が面白くなってくる20代半ばの私と、日々老いて自分で出来る事が少なくなっていく親戚の間にギャップがあるような気がして、挨拶以外、ずっと黙っているばかりになってしまった。
「最近は、正座じゃなくて、こんな風に小さいパイプ椅子並べてやるんだね」という母の呟きも、気に留める気にもならなかった。

大きなおまんじゅうのような頭をした、お馴染みのお坊さんがお経を読む間、伯父の事を、少し思い出していた。

伯父もあまり長く職に就くことは無く、無職の期間もありながら職場を点々として、主たる収入源は、一緒に暮らす叔母の稼ぎだった。
缶コーヒーや甘い物が大好きで、その為か長く糖尿病を患っていた伯父。

私はそんな伯父を小さい頃は揶揄うばかりで、中学生を過ぎると冷たく接し、お世辞にも優しい姪っ子では無かった。
それでも、亡くなる1ヶ月程前に、やっとこさ病院にお見舞いに行った際には、伯父が看護師の方にいつも、私を自慢の姪っ子だと話している事を、伯母が教えてくれた。

思わぬ伯父からの好意は、亡くなって7年経った今でも、むず痒い気持ちがするな、と思っていたら、自分の焼香の番が回って来た。
伯父の遺影を見ながら、「こんなに穏やかな顔して笑っていたのか」と何だか疲れが取れるような気持ちがした。
そういえば、亡くなったばかりの頃、従兄弟が「伯父ちゃん、モテたんじゃない?人当たり良いし」と話していたのを思い出した。

お寺でのアレコレが終わり、ホテルの日本料理店で皆で食事をした。ドリンクの注文の際に皆が頼むのは、烏龍茶か熱いお茶。その中で、呑兵衛でも運転がある為、仕方なくノンアルを頼んでいる父に似た私は、1人でビールもワインも飲んだ。

食事の後は解散し、伯母の家で、使わずに閉まってあった食器を、これからの1人暮らしの為に貰い、母の叔母の家にも寄って、玉葱のお裾分けと、自家製の梅干しを貰った。
自分の夕食用に買ったであろう、市場で買った巻き寿司も持たせてくれた。

不覚にも、「温かいな」と感じて、涙が出そうになってしまった。会う度に無愛想な私に対して、親戚達は、何を怒る事もなく、いつもいつも優しさだけを与えてくれる。
例え私が、弱音を吐かず、悩みは自分で消化して、怠けず、自分の足で立てる人間になる事を望んでいても、容赦なく入って来る優しさは、やっぱり心地良い物でもあるのだ。

私はまだ、誰かにこんな風に優しさを与えた事がない。だからまだ、誰かと優しくし合う関係を築けた事もない。

福岡への帰り道、いつもは話さないけれど、「そろそろ転職を考えてもいいかもしれない」と最近思っている事を、両親に話した。

父は、他の会社に転職しても、勉強して公務員を目指しても、大学で学び直しても、何だって良いと考えてくれていた。15歳で実家を出た父は、いつもそういう考え方だった。「自分で好きにしたらいい」という、母方の家族とは違った優しさや安心感を、父からは感じた。

これから本当に、新居での1人暮らしが始まる。親からの命令でもなく、異動による勤務地の変更によるものでもなく、自分で決めた事だ。

不安がたくさんある。25歳にもなって1人暮らしにビビって情けないという感情と、別に良いじゃないか、という感情を、何度も何度も行ったり来たりしている。

今日は、焼香の時に見た、伯父の穏やかな笑顔を思い出して、心を落ち着けながら、眠りにつこうと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?