マガジンのカバー画像

生きやすさは活きやすさ

20
視点を変えれば見えるものもある。視点を変えれば生きやすくもなる。小さな思考の変化が活きやすさにつながる。徒然なるままに書き記しています。
運営しているクリエイター

2023年9月の記事一覧

好むものあれば好まざるものもある。

名月を愛でる人心あれば名月を避ける魚心あり 綺麗なもの美しいものには目を奪われます。人の心や行動なども同じようにひきつけられる魅力がありますね。 わたしは魚釣りをします。夜釣りにでかけ、優しく照らしてくれる月には心癒されます。 でも月夜を嫌うお魚もいるんですよね。その明るさに岩陰に潜んでしまうお魚が結構いるそうです。(お魚とお話ししたことないので、どう思ってるのか知りませんが) 満月には力が宿り、不思議な力も…。なんて言われるわりには、竿先が動くこともなく、ひたすら月

"いま”は過行くもの。"これから”が未来を築く。

『今をトキメク』という表現があうのなら 『これからをトキメク』視線をいま持つ 『今を時めく新進気鋭の…』 なんて呼ばれる日がきたらいいな。なんて憧れを持つこともあるでしょう。 でもこの状態を維持するのは、とても難しい。なることすら難しいのに維持するなんていうのは至難のわざでしょう。 それこそ 兵どもが夢のあと… がせいぜいかもしれません。 事を起こすにあたり、目標って決めますよね。短期、中期、長期と決めておく良さは、言うに及ばず。 そこで今回考えるのが、

『友と供』身のおき方を考える

身を置く場所に不安あるなら 友を得る。友は身を助け 供を得れば身を亡ぼす。 新しい場所、新しいポジションには期待と同時に不安も付きまとうもの。 今いる環境であっても、自分だけでは不安という時もあるでしょう。 そんな時、寄り添い励みになってくれる友の存在。ありがたい存在ですよね。 ただそのかけがいのない友という存在を、時に自己都合として接する人もいます。自分を引き立てる役であったり、手足のごとく使う存在であったり。 そこまでではなくても、自分の不満をぶちまけるだけの存在

余白をとるのではなく、感じられるかを考える。

楽しみの中に余白を感じるのかなにもせず心身を休め余白を感じるのか 仕事に学び、そして人生にと何かと余白といわれる昨今。 余白をとる良さは多く語られているので省略。 ここでは余白自体を考えてみたい。個人的には余白が必要かと問われれば、必要と答えるが、一般的な余白というものが必要かと言えば、考えよう。 それが今回思うこと。二つの視点を考えてみようと思います。 まずは一つ目。どれだけタスクを抱えようが、時間を要しようが、心や体が無理と感じていなければ、そこには余白が存在す

栄華を求めるなら、身の丈もあわす

栄華に目が眩みその輝きを目にできないなら栄華は災いとしかならず 大なり小なり成果を求める日々の生活。 目標や目的のある人生はなかなか良いものです。 そんな中、ふと思うことがあります。 「この人は達成したものを見えているのだろうか」と。 思うところは二つ。 喜びに舞い上がり歩みを止めてしまった 身の丈以上の変化に踊らされてしまった どんなレベルであれ、栄華は『いまのご褒美』。決して終着点ではない。 にもかかわらず、あたかもいまの見える世界がすべてだと思ってしま

活路は生き物。自ら動くことでその住処を探せるものなのかも。

歩みを止め周囲をみれば悲観が漂い 動き続け周囲を見れば活路が見いだされる 『動』あるものは目標に向かい意気揚々と道を進む。また、ある者はもがき苦しみわらをも掴むようにさまよう。 どちらも動いているんですよね。 「周囲が動いているのにもかかわらず、自分だけが立ち止まっている」 そんな焦りにさえも動きはあります。 それでも違いがあるのはなぜ… 違いがあるとすれば、『動』といっても、前に進むのか空回りするのかの違いなのかもしれません。 成果に焦点をあてれば、空回りは立

『緩さ』とは

緩さは余白緩さは走り出す準備 緩さは臨機応変に動く必需 緩さは怠慢とは違います Ⅹ(Twitter)内においても、日々ゆるゆるなことを発信しています。 中には「こいつ前線から離脱して緩さに逃げたな」 なんて思われているかもしれません。 一言この場をお借りして 「ちがーう」 それではなぜ『緩さ』を推すのか。 緩さが視界を広げてくれる日々戦う人たちは本当に一生懸命。その姿に頼もしさを感じます。 でも… 頑張りに成果がついてこない場合も多いんですよね。頑張りや

『出る杭』になるなら将を用いる

大事を起こすに 自ら動かず 将を用いて 大事を成す そこに将の意あらば 自ずと成される われ功を得ようと 波風たたず 『出る杭は打たれる』 あまりにも有名なこのことわざ。 時が移っても「まさしく」ってことが多いですよね。 人の妬みや恨みは怖いものです。 それならば 「自ら動かなければいいじゃん」 と思うわけです。 でもそれでは功を得ることが難しいと思われるかもしれません。ごもっともな感想ですね。 そこで考えたいのが、自ら動くことなくても、リーダー格である