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”不切正方形一枚折り”はなぜ”すごい”と言われるのか?

 現代の折り紙作品の多くは”不切正方形一枚折り”というレギュレーションで作られている。一枚の正方形の紙を用いて、切り込みを入れず、折るだけで形作るという伝統的なレギュレーションである。代表例としては伝承折り紙の『鶴』があげられるだろう。

 折り紙を好きで趣味にしている人も、そうでない人も、折り紙と言えばまず思い浮かべるのはこの不切正方形一枚折りだ。「切り込みを入れるとなんかずるい気がする」、「二枚以上を組み合わせるのは何となく抵抗がある」といった感覚を持っている人は多い。私は折り紙作品の展示会に何度も参加してきたが、「この作品は長方形から折られています」「二枚の紙を折って組み合わせています」と紹介するとかなりの確率でがっかりされる。

 私はこの評価は妥当だと思っている。

 不切正方形一枚折り”以外”の折り紙作品の評価について、折り紙愛好家・創作家から「過小評価だ」と不満の声が上がることは多い。このnoteでは、不切正方形一枚折りがなぜ高く評価されるのか、”折り紙作品を鑑賞する一般の方”と”折り紙愛好家・創作家”で不切正方形一枚折り”以外”の折り紙に対する評価の差がなぜあるのか、私なりにまとめてみようと思う。

筆者自己紹介

kal
 スーパーコンプレックス(超複雑系)折り紙を得意とする折り紙創作家。早稲田大学折り紙サークルW.O.L.F.元代表。鱗まで折りこんだ魚など、ハイディテールな作風が特徴。不切正方形一枚折りにこだわらず、長方形や複合での作品作り、作品への着彩など、自由なスタイルで折り紙創作を行う。


Ⅰ. 不切正方形一枚折りはなぜ高く評価されるのか?

 まず、不切正方形一枚折りについて軽く説明をすると、前述の通り、一枚の正方形の紙を用いて、切り込みを入れず、折るだけで形作るという折り紙のレギュレーションの一つである。書店で取り扱われる折り紙の本の多くは不切正方形一枚折りの作品を中心に扱っており、最もメジャーなレギュレーションと言って良いだろう。このレギュレーションは強制されているわけではない。作品の募集要項に”不切正方形一枚折りに限る”といった文言は見たことがない。しかし、日々創作される作品、出版される本、展示会で展示される作品は不切正方形一枚折りが多いのが実情だ。
 そもそもだが、折り紙の定義はかなり曖昧で、切り貼りを前提としたペーパークラフトとの境界線は不明瞭だ。複数枚組み合わせることを前提とした複合折り紙という分野も少数派ながら存在している。これは私見だが、何枚使おうが、切り込みを入れようが、”紙を折る”という行為が作品の構成要素の多くのウェイトを占めているのなら折り紙と言えると思う。しかしながら、不切正方形一枚折りを特別に好む人は多い。少々過激だが、「不切正方形一枚折り以外は折り紙でない」という意見すらあるほどである。

 では、一体なぜ、”不切正方形一枚折り”はこれほどまでに好まれているのであろうか?要因を分類して考えてみたい。

※以下、”折り紙を趣味としていない・創作をしていない一般の方”を”一般の方”と表記する。

①環境的な要因

 折り紙に対するイメージは身をおいてきた環境によって形成される。例えば、以下のようなものだ。

・不切正方形一枚折りの作品しかほぼ折ったことがない
・市販の「折り紙用紙」がほぼ間違いなく正方形である
・市販の折り紙の本の多くが不切正方形一枚折りの作品を扱っている
・折り紙の展示会で展示される作品が不切正方形一枚折りであることが多い
・メディアが折り紙を取り上げる際、不切正方形一枚折りを強調する
など

 こういった環境に身を置いていると、不切正方形一枚折り以外の折り紙作品に触れる機会が少なく、それがスタンダードだと認識するだろう。実際、作品数などを鑑みると、不切正方形一枚折りがスタンダードだと思って間違いはない。展示会を開催すると、一般の方の中からほぼ100%の確率で「鶴しか折ったことがない」「今は鶴も折れない」などのコメントがある。自身の見聞きや体験したものを基準に考えている証拠だ。

 特筆すべきは、展示会で展示される作品やメディアで取り上げられる作品は複雑な作品が多く、不切正方形一枚折りがことさらに強調される点であろう。
 「こんな複雑な作品が切り込みを入れずに一枚から作られています!」
 とてもキャッチーなメッセージで刺さりやすい。こういった環境が”折り紙観”に影響を与えているのは間違いない。

 こうして、”不切正方形一枚折りが標準で、その枠組みの中で作品に対する評価を形作る”ようになるのだ。そこから外れた作品に対しては、例えば複数枚組み合わせている作品に対しては「それってペーパークラフトじゃない?」という感想が生じる。これまで身をおいてきた環境が不切正方形一枚折りという折り紙の”聖域”を作り出すのである。

 一方で、不切正方形一枚折り以外の作品に触れる機会もまた、しっかり存在する。代表的な例でいうと、手裏剣やくす玉を作ったことがある人は多いだろう。これらは”ユニット折り紙”と呼ばれ、数枚〜数十枚の紙を折って組み合わせる折り紙の一分野である。多くの伝承作品が存在するほか、書店での取り扱いもかなり多い。しかし、ユニット折り紙はその繰り返しパターンの美しさ、幾何的な美しさを楽しむ折り紙の”特殊例”であろう。本論からは除外する。

②”想像のできなさ”に関する要因

 何かを評価する、特にアートと呼ばれるものを評価する際の評価軸として、”想像のできなさ”がある。自分に想像できないもの、作り方を想像できないものは”すごい”のだ。不切正方形一枚折りには以下の三要素が詰まっている。

・”切り込みなし”で形作られることに対する想像のできなさ
・”正方形”という特徴の無い形から形作られることに対する想像のできなさ
・”一枚だけ”で形作られることに対する想像のできなさ

 この三要素を図にしてみたのが以下である。

図. 不切正方形一枚折りの三要素と”想像のできなさ”

 ポイントは、スタート地点の材料からゴール地点の作品を”想像できる”かということにある。脚がたくさんあるモチーフを作りたいとき、切り込みを入れれば細いパーツができそうだと想像できる。細長いモチーフを作りたいとき、細長い紙を使えばできそうだと想像できる。複雑なモチーフを作りたいとき、複数枚使ってパーツごとに作ればできそうだと想像できる。想像の範疇に入ると、”すごい”と思いにくくなる。

 そう考えると、不切正方形一枚折りは隙が無い。どの要素も”想像のできなさ”を増幅しているのだ。単に形だけを見ると正方形は長方形の中で最もプレーンな形であり、切り込み無しかつ一枚であるので加工にも不自由である。

 ここで補足なのだが、重要なのは想像できるかどうかであり、実際に作れるかどうかではない。悲しいことに「何となくできそう」と思った時点でその評価は低くなってしまうのが現実である

 逆に言えば、不切・正方形・一枚の三要素を破ったとしても想像ができなければ評価は下がらない。例として自作で恐縮だが、私の作った『ポリプテルス』という作品がある。この作品は不切”長方形”一枚折りであるが、正方形スタートでないことについて否定的なことを言われたことはない。多数ある鱗やヒレ、全体の解像度の高さから、長方形であることに注目が集まらず、プロセスの想像に寄与しなかったのだと分析している。

写真. 拙作『ポリプテルス』。不切長方形(1:2)一枚折りの折り紙作品。

 また、不切・正方形・一枚の要素から著しい逸脱が無ければ注目されないというのもある。例えば、同じ長方形でも、アスペクト比の高い細長い長方形は完成形への想像を促進するが、1:√2や1:2などの比較的アスペクト比の低い長方形であれば、完成形への想像をあまり促進しないだろう。私のポリプテルスは1:2の長方形から折られたものである。複合折り紙作品の枚数についても同様で、枚数が多ければそれだけプロセスの想像に寄与する。作品の複雑さと使用枚数のバランスによって、その評価は上下するだろう。

 さらに深堀りすると、スタートの材料とゴールの完成形との差が大きさえすれば、材料の形はプロセスの想像に寄与せず、作品の評価は下がらない。例えば、デビット・ブリル氏の名作『馬』は正三角形の紙から作られるが、正三角形のどこをどのようにすれば馬になるのか、今の私にも理解しがたい。ロバート・J・ラング氏の『BLACK FOREST CUCKOO CLOCK』も、1:10の細長い長方形から作られているが、プロセスの想像ができない作品である。

③”縛りプレイ”に対する評価

 不切正方形一枚折りは一種の”縛りプレイ”である。縛りプレイは確かに高い技術レベルを必要とされるが、その話題性の高さから往々にして実態よりも高評価を受けやすい。「普通だったらそんなことしない」という感覚は”すごい”につながりやすいのだ。これは、①の環境的要因でも触れたメディアの取り上げ方にも大きく関係しており、注目を集める上で非常に大きな要素になる。要するに、評価に下駄を履かせることになるのだ。
 また、注目すべきこととして、その縛りプレイの理解度が高くなるに伴って、この下駄の高さが減少することを取り上げる。縛りプレイに慣れ、理解度が高くなると、その驚きは薄れていき、作品の評価に対する解像度は上がっていく。不切正方形一枚折りの作品をよく折る人(特に創作家)において、もはや”不切正方形一枚折りである”という点はほとんど評価を上げなくなるだろう。

④その他諸要因

 上記三要因以外にも不切正方形一枚折りを評価する要因はある。創作家の間では、正方形内にパーツを納めるパズル的な要素、展開図の美しさや発想の面白さ、紙効率の良さなども評価対象になりうる。”正方形から作品を作り上げるという体験”のデザインもまた、評価対象となるだろう。設計方法が角度系なのか蛇腹なのかでも評価は分かれていくはずだ。折り紙作品の評価は非常に多角的で、様々な要因が考えられるが、上記三要因と比較すると、その影響力は小さく、また、専門性が深いものと考えている。

 以上のような理由で、不切正方形一枚折りは高く評価されていると私は考えている。ここで重要なのは、それぞれの項目が複合的に組み合わさって評価を形成しているということであり、単体で完結できるものではないということである。例をあげると、たいていの日本人は子供の頃に折り紙を折ったことがあり、不切正方形一枚折りを体験しているので、①の環境的な要因の影響が大きくなるだろう。反対に、折り紙文化にあまり触れたことのない外国の方については、②の”想像のできなさ”が要因として相対的に大きくなるだろう。それぞれの要因の大小を総合して折り紙作品の評価を形成しているのだ。

折り紙作品の評価形成過程の考察

 では、どのような過程で評価が形成されるかを考えたい。前述の通り、不切正方形一枚折りが評価される理由について、3+1要因に分解した。その図示を試みたのが下図である。横軸を知名度、縦軸をレベル※1としている。右下にある塗りつぶされた領域は、その人の折り紙経験の範囲を示しており、普通、折り紙経験の範囲は、知名度が高く、レベルの低い、右下の領域を中心に形成される。例えば、鶴などの伝承作品しか折ったことない一般の方はまさに一番右下の領域、そこから折り紙本等を通して経験を広げると、経験範囲の面積は上や左に広がっていく。その経験範囲と、前述の3+1の要因から作品の評価を形成するというのが、今回のnoteにおける私の仮説である。
※1 この「レベル」という言葉は、単に複雑さや難しさをさすものではない。例えば、「レベルの高いシンプル作品」も成立する。「練度」や「習熟度」、「完成度」、「洗練度」などの言葉に近い概念として理解してほしい。決して「レベルが低い」は馬鹿にする表現ではないと補足しておく。

図. 折り紙作品の評価形成過程の仮説

 例として、一般の方が不切正方形一枚折りの折り紙作品を評価するケースを考える。前述のとおり、一般の方の折り紙の経験範囲は、知名度が高くレベルの易しい右下の領域である。つまり、不切正方形一枚折りが中心で、伝承作品に代表されるような強烈なデフォルメが利いた作品が主な経験範囲だ。代表例として一つ取り上げると、折り紙作品で最も有名な鶴は、単体で見たらとてもじゃないが鶴には見えない。”伝承折り紙作品の”鶴というように、注釈が付いてようやく認識できるものであり、リアルさ、モチーフに対する表現度が高いものとは到底言い難い。
 そんな一般の方が、同じく不切正方形一枚折りで、大きな翼と長い尾、鋭い爪、大きな角を持つドラゴンを見たら、「すごい!」「信じられない!」と高い評価を下すのは想像に難くない。つまり、自分の知っている折り紙の範囲から想像して、レベルが高い作品を高く評価する、と考えられる。

 各評価要因を分解して考えると以下のようになる。
 「①環境的な要因」は、前述の通り、自分の経験から評価を形成するための下地を作る要素である。図中でいうと横軸である知名度の広さを主に表している。自身の経験した範囲の物を”折り紙”と認識し、自身の経験した範囲よりレベルの高い作品に高い評価を下すのだ。よって、高評価する範囲は、自身の経験範囲幅の真上のレベルの高い領域になる
 「②”想像のできなさ”に関する要因」は、自分の経験範囲と、評価対象の作品の間のレベルの差を意味する。自分の知っている折り紙の範囲から、その評価対象の作品がどれだけ”想像できないか”によってその縦幅が決まる。
 「③”縛りプレイ”に対する評価の高さ」は、縦軸のレベルを押し上げる項目である。実情に加えて、下駄を履かせるように持ち上げるため、実情の作品評価よりレベルを上に平行移動させることとなる。
 「④その他諸要因」は、様々な評価点を内包するため、単純にレベルの上下を判断することができない。そのため、①〜③で形成された評価を何らか上下するものと私はとらえている。
 こうして折り紙作品の評価は形成されるのではないか。

 以上を踏まえた上で、不切正方形一枚折り”以外”の評価について考えてみたい。繰り返しだが、一般の方の折り紙の経験の範囲は、不切正方形一枚折りで比較的簡単な作品を中心としている。つまり経験範囲の横幅が狭いのだ。その範囲から横に外れた作品を評価しようとするとどうなるか?必然的に想像により評価せざるを得ない。つまり、②”想像のできなさ”に関する要因の比率が、相対的に増大する。作品制作のプロセスの想像ができるかどうかが評価の要になるわけである。

図. 不切正方形一枚折り”以外”の折り紙作品に対する評価形成

 具体例として複合折り紙を考えてみる。一般の方は複合折り紙の経験が乏しい。そのため、複合折り紙で精巧に作られた作品を見たとき、”自分の知らない分野の折り紙らしきもの”を評価することになる。脳裏には「これは折り紙なのか?ペーパークラフトなのか?」という疑問がよぎるだろう。評価の土台が不安定になるのでプロセスを想像する。「パーツを一枚一枚折って作り、それを組み合わせて一つの作品にしていく。なるほど」と。そうして評価をするのだ。「これは自分の想像の範疇である」と。その結果、複合折り紙作品の評価は、実情に反して低くなるという現象が起こるのだ。こうして、不切正方形一枚折りを特に高く評価する現在の状況が作り出されているというわけである

Ⅱ. 不切正方形一枚折り”以外”の評価になぜ差が出るのか?

 前章では、不切正方形一枚折りが高く評価される理由について整理・考察してきた。ではなぜ、一般の方と折り紙愛好家・創作家との間で不切正方形一枚折り”以外”の作品の評価に差があるのだろうか?

 一般の方、折り紙愛好家・折り紙創作家の経験範囲の差を考えてみる。折り紙愛好家・創作家は一般の方と比べ、折り紙の経験が圧倒的に多い。本を見て作品を多く折り、実際に鑑賞し、豊富な知見を蓄えている。一方、一般の方は、幼少期に鶴などの伝承作品や易しめな折り紙本による経験はあるものの、現代の非常に複雑に発達した折り紙文化にはなじみが薄いだろう。私は、不切正方形一枚折り”以外”の折り紙作品に対する評価の差はこの経験の差によるものだと考えている。

 前章の考察にのっとり、まずは折り紙愛好家・創作家と一般の方の折り紙経験を図示してみる。一般の方の経験する折り紙の範囲は、知名度が高く、レベルの低い右下の領域である。多くは不切正方形一枚折りで、全員がここから始まると言っても過言ではないだろう。ここを起点として、折り紙愛好家になる人は経験範囲を広げていく。よりハイレベルな本に手を出したり、自分なりのアレンジを加えてみたり、複数の作品を組み合わせてジオラマを作ったりした経験のある人は多いのではないだろうか。

図. 一般の方、折り紙愛好家、折り紙創作家の経験範囲の比較

 小学生時代の私の経験をいうと、図書館の子供用の折り紙本をあらかた折り終わり、さらに複雑でかっこいい作品を求めて大人用のコーナーで『ビバ!折り紙』(前川淳著、サンリオ、1989)や『おりがみ―動物アルバム』(川村晟著、京都書院、1987)を発見、スーパーコンプレックス折り紙の道へと足を踏み出した。他の例では、『本格折り紙: 入門から上級まで』(前川淳著、日貿出版社、2007)やTVチャンピオンでも有名な神谷哲史氏の『神谷哲史作品集』(神谷哲史著、おりがみはうす、2004)等の書籍から折り紙の世界に深く踏み込んだという話も良く聞く。

 不切正方形一枚折り”以外”の折り紙についてもこのタイミングで出会うだろう。体感、女性に多いのが、ユニット折り紙や花の折り紙など。反対に男性に多いのが、乗り物やロボットなどのモチーフだ。これらの領域は複合折り紙であることが非常に多い。折り紙愛好家はこのように様々な作品に触れ、新たな知見を獲得していく。縦軸のレベルとともに、横軸の知名度についても経験範囲を広げていくのだ。

 更にその後、折り紙創作家になるような人は、上記折り紙愛好家の経験範囲をほとんど網羅している状態で、さらに自分の得意領域を極めていく。不切正方形一枚折りで更に複雑な作品を作る人、巧みなデザインセンスでデフォルメされたシンプル作品を作る人、幾何的な美しさを持つユニット折り紙を作る人、インサイドアウトで綺麗な模様を作る人、複合折り紙でリアルを追及する人。折り紙創作家は往々にして自分の得意分野を持っているため、図上の経験範囲が尖っていく

 このように、折り紙経験範囲の横幅は、一般の方、折り紙愛好家、折り紙創作家で大きく異なる。横幅の広さは、一般の方<折り紙愛好家≦折り紙創作家である。よって前章の考察にのっとると、折り紙愛好家・創作家は一般の方より広い範囲の分野について評価できるようになるということだ。逆にいうと、不切正方形一枚折り”以外”の折り紙分野の適切な評価は、一般の方にはほとんどできない。よって一般の方は、”相対的に”不切正方形一枚折りの作品に対する評価が高くなるのである

図. 一般の方と折り紙愛好家の評価範囲の比較

 折り紙創作家の作品評価について話を深めると、創作家個人個人で得意分野が異なるため、評価幅、評価レベルに関して大きく差が出てくる。折り紙創作家はその尖った経験範囲から、それぞれ独自に見る目を養い、自分の得意分野について解像度の高い評価をできるようになる。そのため、不切正方形一枚折りを多く作る作家は不切正方形一枚折りの作品を特に高く評価し、不切正方形一枚折り”以外”の折り紙を多く扱う作家が不切正方形一枚折り”以外”の作品を特に高く評価する、という現象が生じるわけである。

図. 折り紙創作家の経験範囲と評価範囲の比較

 別の例として、分野違いをあげよう。ここまで書いておいて大変お恥ずかしい限りなのだが、私はシンプル作品の評価をすることができない。コンプレックス作品の経験ばかりを深めていったため、コンプレックス作品への評価は一家言持っているが、ことシンプル作品となると、自身の経験の無さから評価に靄がかかってしまう。デザインの良さや基本形の作り方など、全く評価できる部分がないというわけではないが、好き/嫌いの延長線上にとどまってしまう。私には、経験のない分野の”すごさ”はわからないのだ。できる範囲とできない範囲が明確にわかるような経験を持ってこそ、作品の適切な評価ができるものと考えている。

 以上から、冒頭の私の意見が導き出される。
 私は、不切正方形一枚折りの作品が時に過剰に評価され、不切正方形一枚折り”以外”の作品が時に冷遇されることは、鑑賞者の経験範囲の差を踏まえると、妥当な評価であると考えている。

Ⅲ. 終わりに

 明確に書いておくのだが、本noteはあくまでも、”不切正方形一枚折りというレギュレーション”に対する評価の話をしているだけであり、個別の作品についての評価をしているわけではない。各作品の評価は、モチーフの再現度、折りの正確さ、作品表面の質感(マチエール)、重心やデザインバランス、構図、折り紙的な表現の巧みさ等々、見た目だけでも非常に多岐にわたり、見た目以外のものでも、展開図の美しさ・斬新さ、紙効率の良さ、パズル的要素、制作工程の面白さなど、これまた多岐に渡る。簡単に説明しきれるものでは到底無い。あくまでも、現代の不切正方形一枚折りというレギュレーションに対する評価について、強い仮定のもとにモデル化し、限定的に説明できるよう整理したに過ぎない

 折り紙作品に対する評価は今後常に変化していくものだろう。ここ十数年のSNSの普及によってハイレベルな折り紙作品を見る機会が増え、個人・グループ単位での折り紙作品展示も次々と開催されるようになった。一般書店でも複数の出版社から非常にハイレベルな折り紙の本が発売されている。一般の方が折り紙を見る目は今後ますます肥えていき、その評価はより多様に、より洗練されていくに違いない。

 また、我々折り紙愛好家・創作家の興味や経験の範囲が広がってきているのもまた事実である。今年開催された第28回折紙探偵団コンベンションにおいて、”不切正方形一枚折りからの脱却傾向が見られた”と、kyoppy氏のコンベンションレポートnoteでも言及があった。

「鑑賞者がそれを必要な「選択」と判断するか、単なる「妥協」と断ずるかは、未だに悩ましいところである。」(noteから引用)という意見は、鑑賞者の経験範囲とその作品のレギュレーションのバランス感覚が重要な評価要因となる、ということだと思う。

 ”不切正方形一枚折り”というレギュレーションの”すごさ”は、絶対的なものではないのだ。

 最後に、不切正方形一枚折り”以外”の折り紙作品を高く評価してもらうための方策をあげて終わりたい。以下の4つの方針を考えた。

①易しいレベルかつ知名度の低い領域の普及活動
 折り紙の経験範囲の幅を広げていく活動は有効だろう。昔から、複合で”折り紙ロボ”を折る書籍は多く、本文図中の経験範囲を左に大きく広げている。しかし現状、切り込みありや複合の作品はロボット、花などの限られた分野で見られるにとどまっており※、例えば、動物や恐竜などの分野でもっと普及していくと鑑賞者の作品に対する目は変わるのではないか。地道な活動が実を結ぶはずだ。
※現状存在しないというわけではないが、注目度は低いと考えている。

②圧倒的にレベルの高い複合作品を折って、想像できる範囲を超越する
 作品のクオリティをひたすら探求し、鑑賞者が想像できる範囲を大きく超越する、という方針である。レギュレーションが気にならない程度までレベルをあげ、「もはや自分の知っている折り紙ではない」、という範囲まで行けば、冷遇されることの影響も少なくなるのではないか。今年開催された第28回折紙探偵団コンベンションで展示された、豊村高史氏の『鎧武者』が良い例だろう。

写真. 豊村高史氏作『鎧武者』(筆者撮影)

③展示方法の工夫、継続的な作品評価指標の発信によって、作品評価の解像度をあげる
 今回のnoteの内容から、不切正方形一枚折り”以外”の作品の冷遇は経験の下地が乏しいことが原因だと考えているが、実際に経験しなくても、知識においてそれを補うことができれば、適切な評価につながるのではないか、という方針だ。少々抽象的な表現になったので具体的に例示するが、ジャクソンポロックに代表されるアクションペインティングの絵画は、しばしば「なんか適当にやれば自分でもできそう」という評価をくだされがちだ。私もポロックの絵画の”すごさ”を適切に把握できているかと言われると苦しいのだが、その制作意図、美術史に置ける立ち位置等を考えると、その絵画の価値が何となく見えてくる。これは、美術史を学んだり、美術館での解説文を読んだりして、知識を蓄えたことによる結果だ。折り紙においても、歴史から見たその折り紙作品の解説、技術的な価値等を発信し、鑑賞者の評価解像度をあげていけば、適切な評価に近づくのではないか。
 そのために、例えば折り紙作品の展示会において作品の解説文を充実させ、見て「なんとなくすごい」だけではなく、その”すごさ”を”知識”として吸収できるようにしていくことが重要ではないか。幸い今はSNSもあり、発信へのハードルは低い。創作者よ、もっと語ってくれ。
 また、例えば折り紙作品の品評会を開催するなど、各折り紙作品の価値を適切にとらえられる人材を集め、作者および鑑賞者にフィードバックしていく環境づくりも大切だと考えている。その作品のどこがどうすごいのか、真剣に評価・検討する会があれば、ぜひ私も参加したい。
 不切正方形一枚折りからの脱却が、美術史における印象派のように、歴史的に語られるようになるのかもしれないな、と思う。

④作品そのもののユニークさで想像を突破する
 もうもはや単純な”折り紙”ではない領域で勝負をしても良いのではないかと思う。例えば、小野川直樹氏は、極小の折り鶴を木の葉と見立て、非常に美しい作品群を作り上げている。アイデアの面ですでに想像を突破しているのだ。もはや既存の折り紙と比較するべき物ではないが、こういった方向性で折り紙の可能性を広げていくのもまた面白いかもしれない。

補記

・筆者は美術・芸術分野の学問的な知識に乏しいため、本noteのような”作品の評価過程”の考察をしている先行研究等の見識がほとんどない。もし、参考になる書籍、論文等をご存じであれば、ぜひご教示いただきたい。

・筆者としては、このnoteに書いた私の主張をたたき台に、折り紙作品の評価についてより深く理解したいと思っている。結論を発表するものというよりは、現時点での私の考えを言語化したものとして読んでもらえると助かる。ぜひ一緒に、深掘りする議論をしましょう。

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