見出し画像

英知と私欲がぶつかる知られざる戦争/『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』

2009年6月.ロスチャイルド家がヴィクトリア時代に創設した博物館から,約300羽の鳥の標本が消えた.世にも美しい鳥が行きついた先は,希少な羽で毛針を制作する愛好家たちの世界だった! この突拍子もない盗難事件を偶然知った著者は,最初は好奇心から,やがては正義感から,事件の調査に乗り出す.羽毛をめぐる科学史と文化史,毛針愛好家のモラルのなさと違法取引,絶滅危惧種の保護問題,そして未来へのタイムマシンとなりうる標本と,それを収集・保存する博物館の存在意義.スピーディーに展開される犯罪ルポルタージュ. 

 本書はダーウィンと同じくして自然選択をまとめ進化論に貢献した19世紀の博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスから始まる。ウォレスは生物種一つ一つが地球史という書物の文字だとして生物種の保存をイギリス政府に訴え、艱難辛苦の果てに数多くの生物種の標本をイギリスへと送った。
 こうして大英自然史博物館には数多くの生物標本が収蔵されているのだが、恥かしながら本書を読むまで自然史博物館で収蔵されている生物標本はただそこに「記録」として残してあるものだと思っていた。しかし実はその生物標本には重要な役割があったのだ。生物標本は生化学、発生学、疫学、骨学、個体群生態学など数百人の研究者の調査や分析に利用され、また未来において新しい問題や疑問が浮上した時に研究や技術によってこの標本たちがその答えを教えてくれるという。
 博物館のキュレターが言う「科学的に莫大な価値を持つ資源への投資」とはまさにこのことであった。
 ウォレスとダーウィンが自然選択による進化論を打ち立てることができたのは、それまでに集められて保管されてきた多くの標本があったからであり、博物館のキュレターたちはこのコレクションが人類全体の知識向上に不可欠であるという信念のもと博物館とその標本を守り続けているのだ。

 それを、一人の若者が私欲のために盗み、羽をむしり、インターネットで売りさばいてしまった。

彼は毛針作家であった。

 ここで毛針について少し説明しよう。
鱒毛鉤の思想史』(錦織則政/C&F DESIGN)によると、初めて釣りに毛針が使われたのは(諸説あり定かではないものの)、紀元3世紀ごろに活躍した古代ローマ帝国の文筆家クラウディウス・アエリアヌスは『動物の本性について』(DE NATURA ANIMALIUM)の中で、マケドニアの原住民が雄鶏の羽毛を釣り針に取り付けて魚を釣り上げる様を紹介している。

 古来より毛針は釣りに用いられてきたが、その毛針に意味をもたせたのがイギリスの貴族たちだった。
 それまで魚釣りは餌で釣るものであったが、貴族たちはそこにルールを設け嗜みとした。生きた餌を使わず魚が捕食する虫を模した毛針を使用した。重い絹の糸を使い、大きくしなる釣竿を使用することで魚のいる場所まで毛針を飛ばすには技術を要するようにして釣りの難度をあげたのだ。
これをフライフィッシングという。
映画『リバー・ランズ・スルー・イット』でブラッド・ピットが振り回していたあの釣りである。

フライフィッシングの世界で「毛針」は釣りの釣果に直結するものだ。
昆虫を捕食する川魚の「鱒(ます)」を釣るフライフィッシングでは、魚が捕食している虫に模した毛針を使用することで釣果に大きな差が出る。それには場所、季節、水質、時間帯などの条件によって使用する毛針の種類を変えることが重要だ。そのために釣り場である川それぞれの生態系や自然環境について基本的な知識を持つことはこの釣りを嗜む上での教養とされる。そのため、釣りの中でも敷居が高く、マニア度がとても高いのがフライフィッシングなのである。
 
 また魚を釣るという本来の目的よりも、別の方向へ情熱が傾倒していくのもフライフィッシングの特徴である。1日の時間ごとに特定の川での虫の発生と魚の捕食行動の調査に心血を注ぐ者、歴史ある釣具を収集する者、キャスティング(重りを使用しないため釣竿のしなりを利用して毛針を遠くへ飛ばす)技術を追求する者。フランスの最高級ホテル、リッツの二代目オーナー、シャルル・リッツはキャスティングの運動メカニズムを分析し近代キャスティング理論を構築した『ア・フライフィッシャーズ・ライフ』(柴野邦彦・訳/未知谷)を著している。

そしてその中には釣竿を振ることなく、毛針作りのみを探求する毛針作家たちがいる。

フライフィッシングの毛針の材料は主に獣毛と羽毛を使用する。
古くに作られた毛針は、すでに絶滅した種や現在では絶滅危惧種のためワシントン条約で売買が禁止されている鳥類の羽毛が使用されているが、現代の毛針作家たちは100年以上前の毛針を再現することで、その時代を超越したような感慨に耽りその芸術性を競い合っている。
本書で事件を起こした毛針作家のエドウィンは、その「毛針界の希望の星」と呼ばれるほどの腕前だった。

そのようなかなり狭い趣味の世界であった毛針作家のコミュニティでは、現在では稀少な羽毛をインターネットで売買されていた。そこにはヴィクトリア時代にブームになった羽根飾りの帽子から取ったものなど、アンティーク品から取った羽が数百ドルから数千ドルという高額で取引されているという。

ウォレスが言うところの地球史という書物の文字である自然界の生物は、人間自身によって奪われ、搾取され、滅ぼされてきた。そしてそれらを虚栄心や私欲を満たすために利用してきた。
人類が手付かずの自然に進出すると、英知と私欲がぶつかる戦争がはじまったのだ。

インドネシアの島々の美しい生き物たちを眺めてウォレスは言った。

「これほど美しい生き物が、原始なる未開の地でしか見られないのは残念だが・・・・もし文明社会の人間がこの最果ての地にやってくるようになれば・・・人間はここで絶妙に保たれいた自然のバランスを乱すだろう。そうなれば、人間のみが評価しうる素晴らしい構造と美を持つ生き物は、姿を消し、やがては絶滅する」

そしてこう結ぶ。

「すべての生き物が人間のために創造されたわけではないということだ」

大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』は博物館の珍鳥の剥製の盗難事件という一見変わり種の事件のノンフィクションであるが、地球史と人類の英知から極めて特殊な趣味の世界の話まで知見に富んだ一冊だった。


大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件 なぜ美しい羽は狙われたのか
カーク・ウォレス・ジョンソン/著 矢野真千子/訳
化学同人
3,080円 ISBN:978-4-7598-2013-3


参考図書

鱒毛鉤の思想史
錦織則政/著
シーアンドエフデザイン
7,040円 ISBN:978-4-909415-01-1

ア・フライフィッシャーズ・ライフ ある釣師の覚え書き
シャルル・リッツ/著 柴野邦彦/訳
未知谷
6,600円 ISBN:978-4-89642-504-8

最後までお読みいただきありがとうございました。 投げ銭でご支援いただけましたらとても幸せになれそうです。