「学歴」ってなあに――それは「学歴」じゃなくて「学閥」

今日はちょっと気になることがあったので、「学歴」について書いてみようと思います。

みなさま、「学歴」って言うとどんなことを思い浮かべますか?どんな時に、この単語をつかいますか?

たとえば、こんな感じでしょうか。
「学歴は?」
「○○大学です」
「わー、すごーい、高学歴〜!」
とか
同じように、
「XX大学です、Fランです」
みたいな。

ぼくからすると、こういう会話は、違和感をおぼえるものなのです。

それは、「学歴で人を判断するなんて!」ということとは、少し違います。
もちろん、そういう面もあるのですが、それ以上にぼくが強く主張したいことがあります。

ぼくからすると、○○大学を出て高学歴ー!と言われている人も、Fランと言われるXX大学を卒業している人も、「学歴」という意味では、同じなのです。
だから、両者ともに、「学歴」という厳密な意味においては、「高学歴」でも、「低学歴」でもない。

どういうことなのか。
ぼくにとって、「学歴」というのは、「学士」、「修士」、「博士」みたいなことなのです。
学士、というのは基本的に大学を卒業したらもらえる「学位」です。
修士も同様に、大学院に行ったりして認められたら授与される「学位」です。

じゃあ、冒頭に書いたような「○○大学なんてすごーい!」みたいなのは、なんなのでしょうか。
いわゆる、偏差値が高い大学や、難関大学と呼ばれる大学があります。
それらの大学に行っていたり、そこを卒業していたりすると、世間では「高学歴」と言われます。
ただ、それは、ぼくからしたら「高学閥」、もしくは「良学閥」です。
だって大学を卒業した、という意味では難関大学でも、そうでもない大学でも、同じですから。

高校で考えてみましょう。
高校卒業していたら、「高卒」と認められます。
皆様の地元には、偏差値的に「良い高校」と「そうでもない高校」があると思います。
ただ、それって、「地元」でしか通用しないことが多いのではないでしょうか。
他の県にいったら、おそらくは「同じ高卒」として扱われます。地元の就職だったら、「良い高卒」として扱われるかもしれませんが。

で、大学も同じで、ぼくにとっては、大学の知名度が地域を超えて、ちょっと有名になったもの、と考えています。
もちろん、難関大学に合格していたらすごいかもしれない。けど、「資格」のうえでは、同じ「大卒」、「学士」です。

なんでそんなことを思うのか。
それはぼくが「学歴コンプレックス」だからではありません。

だって、大学の偏差値なんて結局上下するものだからです。
競争率、と言い換えても良い。
たとえば、ある大学で不祥事がおこりました。その大学に行きたいと思う人が減りました、とすればその大学の(相対的な)「価値」は下がります。
今、難関大学と呼ばれているところであっても、未来にはどうなるかわからない。だとするならば、そこまでの価値があるかはわからない。
就職で有利になる、といっても入学した時には良いイメージだったとしても、いざ就活をはじめたらイメージ最悪、みたいなことがおこりえる。この場合は、就活をしている人、ではなく、就活をしている人が属している大学のイメージ、という話です。

あるいは、その大学が「常にある」かどうかなんてわからない。
簡単に潰れるかもしれない。

または、難関大学ではない大学であっても、一気に難関大学になることがある。良い、とされる大学になることがあります。

こんなふうに、大学の「価値」なんてかんたんに変動するのです。
じゃあ、そんな大学の「価値」ってどんなふうに決まっているの?
それは、歴史です。
そこの大学が頑張った教育や研究をしてきて認められたり、そこの大学出身の方に有名な方、優秀な方が多かったりすると「良い大学」とされる。
それの積み重ねです。
だから、ぼくは、そういうのを重視するのであれば、それは「学閥」だろう、と思うわけです。

その点、ぼくが言ったような、学士・修士・博士のような「学歴」は大学の「価値」よりもゆるぎにくいものです。
その制度が変わる可能性と、ひとつひとつの大学の「価値」が変わる可能性でいったら、確実に後者のほうが大きい。
そして、地域の話でしたように、修士や博士といったような「学歴」は海外でも通用します。どこの大学とかある程度は関係なく。

それともう一つ付け足すと、日本は全然そういう意味では「学歴社会」ではない。「学閥社会」だと思います。
理数系の実情はわかりませんが、諸外国と比較すると、日本の博士号所持者の実情はひどいものがあります。
本当の「学歴」社会であれば、博士号を持っている人は、(アカデミックな場以外でも)活躍してもよいのに、と考えたりします。
そういう意味で、日本が本当の意味で学歴社会になるのはまだまだ遠い。それはたぶん、日本が学閥社会で、それによってよい思いをしている方がいるからなのかもしれない。


さて、筆者は冒頭で「学歴で人を判断するなんて!」という意見があることに対して、「そういう面もある」と言って、違う面を書き始めました。
ここで、すこし、ぼくの「そういう面」について書いていきます。

ぼくは大学を卒業していますが、すごい難関大学に通っていたわけではありません。だけれど、ぼくにとっては「第一志望」の大学でした。
というよりも、そこの大学以外考えていなかった。
仮にですが東京大学に受かるくらいの学力があったとしても、東京大学を受けずにその大学を受験していたと思います。
(実際、もっと上に行けると言われましたが受験料がもったいないので断りました。)

なぜか。
高校二年生くらいのときに、ぼくは色々な大学のオープンキャンパスをめぐりました。
好きな学問分野はすでにあったので、そんな感じのことが学べるとよいなあ、と思いながら、好きなテーマの模擬授業を受けに行く、というような感じで。
で、そこで、この人についていきたいなあ、と思う先生に出会ってしまった。
ぼくはその人がいる大学を受けて、その大学に受かって、卒業した。
その先生がいたから、理想的な大学生活をおくれた、と思う。
もちろん他の先生方にもお世話にはなったけれど、理想の方がいるというのは、よいモチベーションになった。
いまでも、その先生のことは尊敬しているし、いまだに関係は続いています。

こんなふうに、大学選びって必ずしも「学閥」で選ぶものでもないのです。
偏差値で選ぶものでもない。
そういう選び方があることは否定しませんが、それは選び方の一つでしかない。同様に、学閥というフィルターがあることも否定はできません。そして、それがある意味では有効であるかもしれない、ということもまた、否定できません。

ぼくが優秀かどうかはさておき、「学閥」的な選び方ではなく大学進学した方にも、優秀な人がいるかもしれない。
あるいは、「学歴」でも同じことが言えます。学歴だって絶対的ではない。高卒だって中卒だって、優秀な人は優秀ですから。
そもそも、なにをもって、「優秀」とするかだって、いろんなことが言えます。

そんなこんなで、今回は――ぼくの学歴や学閥なんかを隠したまま――「学歴」と「学閥」の違い、いろいろな大学の選び方があることなんかを書いてみました。
それではまたいつか。



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