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君の代わりは

「君の代わりはいくらでもいる」

実際に自分が言われたことがあるかもしれないし、そうでなくても、ドラマや漫画の台詞に出てきたり、他人が言われているところを見たり聞いたりしたことが一度くらいあるのではないでしょうか。

この言葉、自己価値と結びつけて真に受けるとすごく傷つきますよね。

自分という存在を否定されたような。
自分の代わりはいくらでもいる。だから自分には価値がないのだ、と。
替えなどいくらでもきくのだと。

私もかつてそう思っていました。
でも、最近ふと気づいたんです。

代わりがいるなら自分がやらなくても別にいいじゃん、と。

代わりがいるなら代わりの人がやればいい。
代わりがいる役割を苦しんでまでやる必要はない。
代わりがいるなら尚更しがみつく必要はない。
代わりがいる役割ごときに思い悩んで、自分を責めて虐めて追い詰める必要はない。

「君の代わりはいくらでもいる」
なるほど、確かにそうかもしれない。
代わりがいるから仕事は回っていく。誰が辞めても何とかなるのは、その人の「役割」には代わりがいるからだ。

でも、他人にとって私の代わりはいても、私にとって私の代わりはいない
社会や組織の中での歯車としての役割を否定されたとしても、それは私自身の価値とは何の関係もない。
私という存在において私は歯車どころではなく、文字通り全てだから。

……と。

なんだかね、このことに気づいてちょっと安心したんですね。
代わりがいることを悪いことのように考えてたけど違うんだな、って。
それは同時に代わりがいないことを特別視していたとも言えます。

何ですかね。
ずっと誰かにとっての「特別」になりたかったんでしょうね。
その「特別」が自分を満足させてくれると信じていたんだと思います。
でも、他人が自分に求める「特別」は、その人にとって都合が良いだけのものかもしれない。理想の偶像でいてほしいだけかもしれない。
その「特別な私」は本当に私なんだろうか。

そんなものに応える必要はなかったんですね。
だから、自分(貴方)もまた他人に(或いは自分に)それを要求しなくてもいい。
「特別な他人」を必要とするのは、自分が「特別」な人間だと実感したいから他ならないのでは?

そんな回りくどいことはしなくても良かったんです。
自分にとって、自分とは確かにかけがえがない存在だから。
事実、唯一無二ですよね。

白雪姫を演じる役者は沢山いても、白雪姫そのものの代わりはいないのと同じ。自分の代わりに自分の人生を生きてくれる人はいないのです。



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