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vol.4『運を味方にする最強の方法』

角田陽一郎のメルマガDIVERSE vol.4 2018年8月11日New Moon

ユニバースUNIVERSE(単一の世界)からダイバースDIVERSE(多元的な世界)へ
多視点(バラエティ)でみると、世界はもっと楽しくなる。
それが角田陽一郎の考えるバラエティ的思考です。まさにいろいろなことをバラエティに多元的に多視点で紐解くメールマガジンです。

■CM■【運の技術】:「高野山の僧侶・飛鷹全法さんとのスペシャル対談」

おはようございます!バラエティプロデューサーの角田陽一郎です。
今回のメルマガは、7月20日に大阪のスタンダードブックストア心斎橋で行われた、僕の新刊『運の技術』刊行記念のトークイベント、高野山のお坊さんで東大卒の元IT起業家という異色の僧侶・飛鷹全法さんとの対談をお送りしたいと思います。
まさに何かを始めるのに、運を意識することは、とても大事だと思います。
でも運とはいったい何なのでしょうか?

飛鷹全法さんプロフィール
高野山別格本山 三宝院副住職/高野山 高祖院住職/地域ブランディング協会理事
東京大学法学部卒。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程中退。専門は比較日本文化論、南方熊楠研究。大学院在学中より、ITベンチャーの立ち上げに参画、ソフトウェアの開発に携わる。その後、株式会社ジャパンスタイルを設立し、国際交流基金の事業で、中央アジア・中東・カナダ等で津軽三味線や沖縄音楽を始めとする伝統芸能の舞台をプロデュース。2007年より経済産業省主催の海外富裕層誘客事業(ラグジュアリートラベル)の検討委員に就任。現在、高野山別格本山三宝院副住職。

*はじめに
角田
宗教と運のお話や、空海がどのようにして運を身につけたのかを、飛鷹全法さんと語ろうと思います。かつてIT業界にいて、今はお坊さんをしているちょっと変わったお坊さんが飛鷹全法さんです。
飛鷹
こんにちは。ホリエモンと同世代で、渋谷が”ビットバレー”と言われていたころに、ソフトウェアの開発をしていました。その後、お坊さんになりました。
角田
そもそも、お坊さんの定義ってなんなんですか?
飛鷹
出家し、俗的な生活を捨てて、仏の道に入ることです。
角田
飛鷹さんのお父さんは警察官僚で、飛鷹さん自身は、東大を出て、IT会社を創立して……。
なぜ、“肩書”について話しているのかというと、“肩書”と“運を開くこと”の関係を語りたいからなんです。
飛鷹
“運”というと、コントロールできないモノだと思われがちですが、実はそうじゃないんですよね。
角田
まさにそう思います。【最速で身につく世界史】という本を書いたときに、多神教と一神教について書きました。
その違いは、“決めるまでに迷うか”、“決めてから迷うか”という点です。日本の神道は森の中から生まれた多神教信仰で、分かれ道に出会った時に、右に行くか、左に行くか、決めるまでに迷いながら進みます。逆に、一神教は砂漠から生まれました。右に行くか、左に行くか、決めてから進み始めます。決めた後に、これからどうしようか、と迷うんです。これは、ジブリ映画とピクサー映画の違いにも表れていますね。
飛鷹
多神教信仰の日本は、選択の可能性自体が許容されているんですよね。多神教と一神教の違いから生まれる文化様式も異なっています。「シンギュラリティ」って最近言われていますが、ご存知ですか。AIが人間の能力を超えてしまって、コントロールできなくなる時代のことです。学説的には、およそ2045年に来るといわれています。
角田
みなさん、人工知能が人間のIQ値を超えるそうですよ。人間のIQ値が大体100で、AIのIQ値が10000になると言われているんです。
飛鷹
自分たちを超える超越的な存在といえば、かつては宗教が担っていましたよね。
日本人と他国の人が想像する神へのイメージは異なっていて、日本の神話には面白いキャラの神さまがたくさん出てきて親しみやすいイメージですが、たとえばイスラム教のアッラーは絶対神で、畏怖すべき存在ですよね。
それと同様に、シンギュラリティの捉え方にも文化的な差異があるんです。
私たちを超える存在としてのロボットも、アトムやドラえもんのように、親しみやすい存在として描かれたりする。
角田
話の前提として、仏の仏教界に神は存在するんですか?
飛鷹
仏教といえば仏なんですが、高野山において、神と仏は両立しています。我々は、除夜の鐘をお寺で聴いた後に、その足で神社に初詣に行ったりしますよね。
日本には、多様性を受け入れる文化が存在しているんだと思います。“自分たちを超えてはいるんだけど、親しみ深い存在であるもの”が、日本における超越性の表現の仕方であって、欧米の議論のみを受け入れて、「シンギュラリティとはこのように恐ろしいものだ」と言ってしまうのは、一面的すぎるんじゃないかなあと思います。
角田
シンギュラリティは絶対的な神ではないですもんね。
飛鷹
AIは人間がデザインするもので、どのようにデザインされるかは、文化様式に規定されるんだと思います。


*運と空海
角田
例えば神社にお参りにいって「100万円ください」と神に願うと、上から降ってくるイメージを皆さん持っていると思います。だけど実は、お参りってお願いしてはダメで、プレゼンしなくちゃいけないんです。
「もし僕に100万円くれたら、世のため人のためにこうします」と神様にプレゼンし、いいプレゼンをしたら神様が100万円くれるんです。
飛鷹
それって、あながち勝手な解釈ではないかもしれないですね。三種の神器の1つが鏡ですよね。ということは、神様を通じて、自分自身の姿を映していると言えるかもしれない。
角田
確かにそうですね。昔は、僕は一神教を理解できなかったんです。「どうして信じる神様を一つに絞らなきゃいけないんだ、いっぱい信じたっていいじゃん」と、思っていました。
でもある時、多神教の場合は上から幸福が降ってくるイメージだけど、一神教は自分が信じているから主体的に行動するため、より運に近づくんだなあってわかったんです。
【運の技術】は、多神教信仰の日本において、運を他力本願に考えている人に、自分の中に開運のコツがあるんだよって伝えたくて書きました。運はコントロールできるものなんです。
ところで、空海は「運」をどのように考えていたのか、ということを飛鷹さんにお聞きしたいです。
飛鷹
ちなみに、【運の技術】が出版された6月15日って、何の日か知っていますか?
角田
知らないです。なんの日ですか?
飛鷹
実は、空海さんの誕生日なんです。
角田
うわ、キタ!これは僕は運を持っていますね!だって【運の技術】という空海の誕生日に出版した本のイベントで、空海の弟子のお坊さんを偶然呼んでしまうという奇跡!
飛鷹
まさに、これが【運の技術】ですね(笑)
角田
僕、結構こういう偶然の一致って多くて、最近、あるミュージシャンのマネジメントを始めたんです。ファーストアルバムのタイトルが「羊の皮をかぶった山羊」です。彼がなよなよしているから、“羊の皮をかぶった狼”からもじって、そのアルバム名にしたんです。そしたら、彼がすごく気に入ったんです。「なんで?」って聞くと、なんと彼、ひつじ年でやぎ座だって言うんです。すごい偶然ですよね!
そのあと、写真家のワタナベアニさんにジャケット写真を撮影してもらいました。その時、アニさんに「活動名を別に持った方がいいよ。」って言われたんです。アーティスト名を別に持つと、誹謗中傷されても気にしなくなるから、って。
で、meiyo(メイヨー)って名前にしたんです。中国語で“没有”って書いて、「何も無い」って意味。でも没(無い)が有るってコンセプトがおもしろいと思ったんです。
飛鷹
最初の話に戻るんですけど、肩書ってものにも、そういうイメージの効果があります。
肩書や名前には、社会的な場におけるアバター的な役割がありますよね。名前を変えることは、社会的機能を使い分けるためにあってもいいんじゃないかなと思いますね。
角田
例えば香港にいる中国人の方に会うと、英語名がありますよね。ジャッキー・チェンとか。それって物心ついたら自分でつけるらしくて……。日本人は、親から与えられた名前をある意味一生使いますよね。僕は日本人の奥ゆかしさの原点がここにあるんだと思います。自分で、こう呼んでくれ、って言うのは結構恥ずかしいじゃないですか。だからあえて芸名を使う、例えばリリー・フランキーさんとか、芸名を使っている方は、大きいことができていますよね。ここに開運の秘策があるんだと思います。
飛鷹
私も僧侶になって間もない時は、僧侶としての名前である“飛鷹全法”だから拝むことができたような気がします。全法”の“全”は代々師僧から受け継いだもので、伝統の力が未熟な自分を支えてくれていたような気がしますね。
角田
さっきも「衣装を法衣に変えると説得力が増す」とも楽屋で着替えながらおっしゃられていましたよね。
飛鷹
そうなんです。お坊さんらしい格好ってやっぱり大事で、歴史が培ってくれた説得力ってあるんですよね。
角田
これまでは、そういう肩書きとか衣装という意味で、武器としてまとえるものが、学歴やいい会社に入ることでした。だけど、それが今、崩れてきてますよね。
飛鷹
みんな何を身にまとえばいいのか、わからなくなっていますよね。社会のシステムがこれまでは固定されていて、1つの人格に対して1つの名前っていうのが、その社会の仕組みに合っていました。
今は、あらゆる関係性が流動化していて、SNSによるコミュニケーションが主流になってくると複数のアカウントを持って重層的な対人関係を持つことも普通になってます。平野啓一郎さんはそれを「分人主義」と言われましたが、こういう人は一昔前の視点から見ると、いい加減な人間だと映るかもしれませんね。
角田
でも今は、ダイバーシティ化が進んでいますよね。
飛鷹
自分の社会における立ち位置、位相自体もダイバーシティ化しているといっていいかもしれませんよね。その人のレベルに応じて語る内容を変えることを仏教では対機説法っていうんですが、ダイバーシティ化の進んだ社会においては、状況に応じて立ち居振る舞いを変えることは、むしろ自然なこととも言えるでしょう。
角田
そういう人は、よく風見鶏だとか、場当たり的だとか言われてしまうけど、実は違うと思います。
飛鷹
一つのレイヤーしか持っていない社会から見るとそう見えてしまうけど、多数のレイヤーを持っている社会からすると、レイヤーごとの表現方法が異なり、多様であるというのは、むしろ正しいことなんです。

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