vol.72 『自分の中の太陽』

角田陽一郎のメルマガDIVERSE vol.72 2021年5月12日New Moon
『自分の中の太陽』

ユニバースUNIVERSE(単一の世界)からダイバースDIVERSE(多元的な世界)へ
多視点(バラエティ)でみると、世界はもっと楽しくなる。
それが角田陽一郎の考えるバラエティ的思考です。まさにいろいろなことをバラエティに多元的に多視点で紐解くメールマガジンです。


■CM■「陽気に生きる」inspired by【なぜ僕らはこんなにも働くのだろうか?】

今日は新月です。5月もゴールデンウィークも終わり、本当はさて本壊し入れて夏を迎えるかって感じなのでしょうが、緊急事態宣言も延長されて、終わるのはいつか、オリンピックやるのかやらないのか、ワクチン接種はいつなのか、的な悶々状態が続いています。
ボクはと言えば、今絶賛夏風邪中で、久々喉が痛くて声が枯れて出なくなってしまいました。当然ここ数日身体はだるいし咳も出てくるし、いよいよコロナか?って心配になったので、かかりつけの内科に行く前に、PCR検査を受けてみました。結果は陰性でよかったのですが、その検査体制の不備とかで、なんとなく悶々が増してしまいました。せめてこの検査をやりたい時に誰でもたやすく安価でやれるくらいのシステム構築を此の国はできないのですかね?オリンピック開催も如何も、そういうシステム構築できる能力が国にあることがそもそもの前提条件なんじゃないでしょうか。
これボクのホント純粋な疑問なんです。なんていうか、この国の政府も企業も、なんとなく新たなシステムを構築することがとても不得手になっていて、新たな事態に対応できない組織や人が多くなってる気がするんです。
これは、ボクのただの思い込みなんですかね?
昔からそういうシステム化は苦手な国だったんですかね?
過去の事例は、上手く行ってるのが神話化して語り続けられるから、あの頃のあの企業はすごかったみたいな記憶と神話になってるだけかもしれないですしね。或いは、今のコロナ化とか環境破壊とか高齢化とか少子化とか原発事故とかが、本当に未曾有の事態になっていて、今までのシステム構築能力だと日本人、いや人類が歯が立たなくなってきてるのかもしれません。

そんなマクロな困難に、日々のミクロな厄介も重なって、なんとなくボクも疲れたのだと思います。そしたら夏風邪が襲ってきました。今日なんかは、ずーっと横になりながら、でもリモート会議はできますから、なんとなく休みつつ仕事をやってました。
ただ、前回もこのメルマガで書きましたが、気持ち的には、それでも前向きに行こうと思っています。
それは前回の新月に書いた決意表明でもあるし、前科の満月に書いた自分を好きになるっていう心境の変化でもあるし、5月の頭に読んだショーペンハウワー哲学に影響を受けたこともあるのです。悲観的な哲学の走りとして有名なショーペンハウワーですが(なので今まで読んだことなかったのですが)、世界は悲観的なもので溢れているからこそ、自分の主観を楽観的にするしか生きていく術は我々には無いという哲学だったのです。この考え方を知って、ボクはまさに目から鱗でした。世界が悲観的なものに溢れているから、それを嘆き悲しんでも仕方がないし、それから逃げおおせることは所詮できないと、知ってしまえ!という哲学なのです。
とすると、ボクらが唯一できることは、「日々陽気に生きることなんだ」というのです。
ボクは自分の本『成功の神はネガティブな狩人に降臨する』でも書きましたが、ネガティブな精神で、世界を前向きに渡り歩くしか、結局は生きる術は無いと、今まで思い込んで生きてきました。でも、だから病むのです。だから苦しいのです。なぜって世界は辛いことばかりだから。ならば、せめて自分の主観だけでも明るく、いや実際それでも暗くなる時はあるのは当然なのですが、だからこそむしろ無理をしてでも明るく陽気にしたほうが、結果この悲しい世界を享受する自分が明るく過ごせるのではないか?と彼は説くのです。
ボクはと言えば、自分の名前は陽一郎です。今までは、自分の中にある陰の部分を、名前が無理矢理隠して、生きていかなきゃいけないような気がして何となくプレッシャーを感じる名前だったのです。でも、この哲学を知って、そうか、自分は名前通りの陽気な男でいこうと、なんというか吹っ切れたような気がするのです。この“気”という雰囲気が大事なんだと思うのです。実際のところは、どうだっていいのです、だってほとんどのことは自分では何も変えられないから。ならば、自分の脳内の中だけでも、気をよくすればいいのです。そうすれば、自分の目の前の世界が、ちょっとだけ明るくなるんだと思うのです。


■DM■「ひまわりを植える」inspired by【天才になる方法】

なので、ボクは、陽気な気分で最近は生きてます。
陽気になると、新しいことを始めてみようかな、って気がしてきます。

最近で言うと、
・トルコランプを自作してみました。
・日差しが強くなってきたので帽子を被るキャラでこの夏は行ってみようと思います。
・メガネも替えました、ちょっと派手になりました。
・身体のストレッチも継続的にやっていてダイエットも進んでます。
・5月から毎朝おはようツイートを始めました。
・今まで嫌いだった自己啓発書の“いい言葉”を素直に受け入れられるようになりました。
・去年からそんなに見る気が失せていた映画などのエンタメを、なんとなく毎週オンデマンドとかで見られるようになってきました。
・処女小説も書き上げました。(夏に刊行します!)
・古い人間関係や仕事を整理しました。
・自分のスタッフに若いインターンを受け入れてみました。
・なので、彼らの新しいコンテンツを動かし始めています。

そして、それこそ学業でなんか悶々として悩んでいたのですが、それも先週光明が見えてきました。
どう言うことかと言うとHPに書いたのですが、

「20世紀の魔法は消えつつある。21世紀の魔法は何なのだろうか?」

今年の4月から、東京大学大学院の文化資源学博士課程に進学した。
2019年に修士に入学してから2年間で、自分の修論は(なんとか)書き上げた。テーマは
『バラエティ番組の制作システムから検証するテレビの演出効果』
そのモチベーションのひとつは、自分が四半世紀の間作ってきたバラエティ番組の制作方法をなんとか理論化したかったのだ。それは、何となく手前味噌ながら成し遂げたような気がする。
そして今は、では自分は次の博論で何を研究するのか?という関心に移っている。
いや、今ちょっとだけウソをついた。
それは関心が移ってるのではなく、どこに関心を向ければいいのか自分でも正直わからなくなっているのだ。
つまり、迷っている。自分もいい歳だし、この歳から何を研究するにせよ、それは自分のキャリアアップではなく、むしろ「世界の真理を掴みたい」という、その一点だけが、ボクの知的好奇心の礎だからだ。
そうだとして、そのボクが求めてるorボクのスキルで解明できる「世界の真理」とは一体何なのだろうか?
博論レベルになると、ボクがこれから付け焼き刃で学んだ知的手段では、なかなか満足するレベルの研究になるかは正直心許ない。だからといって、ボクに今闘えるだけの知的手段など持っていない。それがボクが今迷っている、もう一つの理由でもある。つまり、ボクに博論レベルの研究に耐えられるだけのスキルや能力や体力や精神力があるのだろうか?

そんなこんなで、ワクワクしながら東大に通っていた過去の2年間とは違い、この4月からは明らかにボクのテンションは下がっていた。つまりカルチャーセンター的に、いろんな知識を習得していても、自分にそれを専門研究化する術が無いからなのであった。

で、迷っている時に文化資源学の指導教授から声をかけていただいた。ディスカッションしましょうよと。
そして、そのディスカッションでは、ボクの悩みをすでに知っていたかのように、新たな研究の対象を提示してくださったのだ。

ここから先は

547字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?