見出し画像

AD4「人はかけがえのないものなのか?」

皆様おはようございます。バラエティプロデューサーの角田陽一郎(かくたよういちろう)といいます。
2016年7月末に退職届を提出して、自分のいたテレビ局という会社組織から外れて、そんな“テレビの果て”にいて、いろいろ気づいたことがあります。今日はそんな組織を外れてみて、僕が最近気づいたことを書いてみようと思います。

僕がなぜ組織から出たのか?いろんな理由がありますが、その組織自体の好き嫌いではなく、自分を組織の中の歯車であると感じることが嫌だったからなのでした。

自分がやっていた職務を、組織替え等の理由である日突然、替わったりする。そんな話はどんな企業でもよくあることです。そしてそれは、組織を運営して行く中で必要な新陳代謝なのでしょう。僕もそれはわかります。しかし、その既存のプロジェクトに邁進してきた個人としてはたまったものではありません。自分が培ってきた全身全霊をささげたそのポジションは、自分のものであり、まさに替わりなどいない“かけがえのない”ものだと思っていました。それが、いろんな理由で、さらっと替えられるのが組織です。
僕も番組の立ち上げと終了を経験して、そんな自分のポジションを後輩に“かけがえ”させられたことがあります。つまり、組織の中では個人は“かけがえのない”存在にはなれないのです。
ある担当部署の人間が例えば病気で欠勤したとしても、違う人が替わりにやって、その部署は機能するようにしとかなければ、組織は成立しません。それはどんな立場の人間でもしかりです。「社長がこの人でなくなったら、会社は終りだ」みたいな状況をさけるため、どんな人が替わりに社長になっても、組織は維持されるように作れらているのが、組織にとって正しい在り方だからです。つまり、人は組織の中にいたら“かけがえのある”ものなのです。“かけがえのない”ものにはなれないのです。

そして僕は、自分がやっぱり“かけがえのない”ものになりたくて、組織を出たのだと思います。自分が“かけがえのない”ものになるということは、その分のリスクや責任も、自分にかけがえなくやってきます。でもそれを受け入れる覚悟で外に出たと思うのです。

しかし、そんな考えが変わるきっかけがありました。
最近一冊の本を読んだのです。それは文春新書の『翻訳夜話』。村上春樹さんと柴田元幸さんの共著で、翻訳について語っています。
その中の村上さんの発言で、まさにこの“かけがえのある”ことについて書いてあったのです。

《僕が言いたいのは、非常に不思議なことで、僕もまだ自分の中でよく説明できないんですけど、「自分がかけがえのある人間かどうか」という命題があるわけです。たとえば、皆さんが学校を出て三菱商事に入って、南米からエビの輸入をする仕事をするとします。それで非常に一生懸命やるんだけども、じゃあ、かけがえがないかというと、かけがえはあるんですよね。もし病気で長期療養したら、別な人がそのエビの取引の位置について、一生懸命あなたの代わりにやるわけです。それで三菱商事が、たとえば皆さんが二年間病気になって困るかというと、困らないわけです。というのは別の人を連れてきて同じ仕事をやらせるわけだから。だから、あなたほどうまくやれないかもしれないけど、三菱商事が困るほどのことはないですね。
ということは、いくら一生懸命やってもかけがえはあるわけですよね。というのは、逆に言えば、会社はかけがえのない人に来られると困っちゃうわけです。誰かが急にいなくなって、それで三菱商事が潰れちゃうと大変だから。その対極にあるのが小説家なわけです。》

ここまで、読んですごく合点がいったのでした。村上さんはだから小説家をやっているんだ。自分の名前で勝負し、自分が“かけがえのない”ものとして生きておられるのだな、と思ったのです。しかし、続く次の文章を読んで、僕は打ちのめされました。僕の考えは間違っていたのです。

《ところが小説家に、たとえば僕にかけがえがないかというと、かけがえはあるんです。というのは僕が今ここで死んじゃって、日本の文学界が明日から大混乱をきたすかというと、そんなことはないんです。なしでやっていくんですよ。だから、全く逆の意味だけど、かけがえがないというわけではない。
取り替え可能ではないけれど、とくに困らない。》

この文章を読んで、気づかされたのでした。
そうなんです、組織を出て、自分の名前で勝負するということは、実は組織の中以上に、取り替え可能な“かけがえのある”存在になるということだったのです。確かに村上春樹さんは偉大な作家ですが、彼が言うように、もし彼がいなくなったとしても、多分他の誰かの小説が読まれるだけなのでしょう。それは、芸能人しかり、ミュージシャンしかり。
組織の中にいても、外で個人の名前で生きていても、結局人は“かけがえのない”ものには、なれないのです。
では“かけがえのない”ものとはなんなのか?
村上さんは続けます。

《でもね、僕が翻訳をやっているときは、自分がかけがえがないと感じるのね、不思議に。
たとえば僕がカーヴァーの翻訳をやっている。僕はそのときカーヴァーにとってかけがえのない翻訳者だと感じるわけです。考えてみたらこれはすごく不思議なんですよね。だって翻訳者こそいくらでもかけがえがあるみたいな気がしますよね。でもそのときはそうじゃないんだよね。なぜだろうと、それについて最近考えてみたんだけど、結局、厳然たるテキストがあって、読者がいて、間に仲介者である僕がいるという、その三位一体みたいな世界があるんですよ。僕以外にカーヴァーを訳せる人がいっぱいいるし、あるいは僕以外にフィッツジェラルドを訳せる人もいる。しかし僕が訳すようには訳せないはずだと、そう確信する瞬間があるんです。かけがえがないというふうに、自分では感じちゃうんですよね。一種の幻想なんだけど。》

村上さんは、こう言っています、最後に幻想とつけたしていますが。
でも僕はこの村上さんの説明に、すごく得心したのです。そして僕が組織の中だ、外だ、とこだわって考えていたことの無意味さに気付かされたのです。
つまり、結局のところ、自分がやっている行いが、自分のためであっても、周りのためであっても、自分自身が“かけがえのない”ものだと感じなければ、それは“かげがえのある”ものなのです。
村上春樹さんは、その“かけがえのない”ものは翻訳であるとおっしゃています。きっとその“かけがえのない”行為があるから、彼は小説家として“かけがえのある”世界で、生きていられるんだろうと思うのです。
僕にとって、“かけがえのない”ものは何なのだろう?
皆さんにとって、“かけがえのない”ものは何ですか?

[水道橋博士のメルマ旬報 vol.99 2016年10月20日発行]


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?