音楽は藁から盾へ

最近の音楽を聴いていて思うこと。

(私の認識上)「可愛くてごめん」から急速に伸び、「全方向美少女」続き「初恋キラー」。

全面的に自分をあげていくスタイル。他者に迎合しない芯の強さ、自信を前面に出した歌詞。

「ああ、新しい時代が来たんだな」
おばちゃんながらにしみじみ感じた。

10年前あたりまで、音楽は藁だった。
絶望、渇望に溺れるものがつかむ藁。

それが盾に変わった感じ。他者に過剰に踏み込ませず、自身をまもる盾。

SNSで誰でもごく当たり前にセルフブランディングせざるを得ない時代だし、自分のことは自分でまもらないとという新常識なんですかね。

SNSの世界は厳しい。脚光を浴びる反面、悪意にも晒されやすい。それをどう回避するかの先にあったのが「舐められない自己肯定感の高さ」と「視聴者を引っ張る明るさ」だったんだろう。

一昔前だと一部の上位層だけがSNSで幅をきかせ、「まぢブス●にたい」などと自身を下げることによって賞賛を呼ぶ逆張り商法が散見された。

しかし昨今、フィルター機能の高度化も相まって、あっちを見てもこっちを見ても容姿端麗。もはや美人は非凡ではないのだ。故にありがたみも何もなく、「わかってんなら自撮りすんな」等、アンチの思うがままの流れになってしまう。

アンチは雪だるま式に勢力を増していくため、「誰かに護ってもらう」という売り出し方自体厳しくなりまた、護る側もノーリターンでアテにされてる感に辟易し始めたんでしょう。

無自覚の美というのはもう時代遅れで、今の時代でそれをやってしまうとただの嫌味。SNSでの活動方針から自身の容姿に自覚があることは明白だから、美人は美人を自覚したうえで全力で崩し、意外性と親しみやすさを演出する必要がある。

逆に不美人は全力で美人ムーブをすることで笑いを誘うと共に、「なんか可愛く見えてきたw」「この人見てたら元気出るw」と愛嬌・笑いで勝負を仕掛けていく。

双方の需要が一致する場所に、「自己肯定感がプラスに振り切れている音楽」というものが誕生したのかなあと。


いやはや大変な時代ですね。
「音楽を楽しむ」という選択肢に加え、「音楽を素材として楽しむ」という選択肢もあって。

アーティストは虚しくなったりしないんだろうか、若者は疲れないんだろうかと考えかけて、こういう思考が老害に繋がるんだろうな と(笑)

自分の錆びた物差しで勝手に他者を憐れむのは結局ついていけていない自分に「ついて行きたくないだけだもーん」と言い訳し、相手を可哀想にカテゴライズすることで自分の足元を固める、なんていうか総じてダサい行為ですね。

アップデートすることと、自分の生きてきた時代を否定することはイコールじゃない。

脱皮をあきらめないぞー。


とまあ、着地が大分ずれましたが本日はこのへんで

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